人気ブログランキング | 話題のタグを見る

中山晋平(1887~1952)

中山晋平(1887~1952)_f0368298_01101766.jpg

中山 晋平(なかやま しんぺい)

作曲家
1887年(明治20年)~1952年(昭和27年)

1887年(明治20年)、長野県下高井郡新野村(現在の中野市)に生まれる。生家は名主、村長を出した旧家であったが、父親の急死により落魄し、養蚕をする母親に女手一つで育てられる。1903年(明治36年)、長野師範学校講習科を修了し、尋常高等小学校の代用教員となる。この当時から唱歌が好きで、生徒からも唱歌先生と呼ばれた。1905年(明治38年)、故郷での代用教員の職を辞し上京。島村抱月の弟の縁により抱月の書生となる。1908年(明治41年)、東京音楽学校予科に入学。1909年(明治42年)には本科のピアノ科に入った。1912年(明治45年)、東京音楽学校本科を卒業。東京都浅草の千束小学校音楽専科教員を務める傍ら作曲を行う一方、島村抱月が松井須磨子らと旗揚げした「芸術座」に参加した。1914年(大正3年)、トルストイ『復活』公演の劇中歌『カチューシャの唄』を抱月の依頼で作曲。同曲は松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。翌年公演したツルゲーネフ『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』も大人気となった。1917年(大正6年)、トルストイの『贖罪』を戯曲化した『生ける屍』の劇中歌として北原白秋の詞による『さすらいの唄』を発表。1918年(大正7年)、島村抱月の死去により「芸術座」が解散。1919年(大正8年)、斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』に童謡を発表するが、当時はまだ童謡の認知度が低く、教員として唱歌を教えるべき立場を憚って「萱間三平」との変名による発表だった。1920年(大正9年)、野口雨情と組んで『金の船』から多くの童謡を発表。『証城寺の狸囃子』『背くらべ』『アメフリ』『肩たたき』『雨降りお月さん』『あの町この町』『砂山』『鞠と殿さま』『てるてる坊主』など多くの傑作を発表した。1921年(大正10年)には野口雨情作詞の『船頭小唄』が大ヒット。同曲は日本の歌謡曲の基本的な型となり、日本固有のヨナ抜き音階やリズムの特徴を生かした独特な様式の中山作品は「晋平節」といわれた。一方、日本的な歌謡の創作をめざした「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、『須坂小唄』『十日町小唄』『天竜下れば』など新民謡運動でも大きな役割を果たした。1922年(大正11年)、千束小学校を退職。1928年(昭和3年)、日本ビクターの専属となり、世界的なオペラ歌手藤原義江、佐藤千夜子の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。1929年(昭和4年)、西條八十とコンビで作った『東京行進曲』が佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録。この頃、ラジオ文化の発展に伴い、作曲した流行歌の楽譜集が「中山晋平作曲全集」として銀座・山野楽器店から順次発刊され、竹久夢二の表紙画の人気も手伝い大いに売れる。その後、アルト歌手の四家文子、バリトン歌手の徳山璉、バリトン歌手だった藤山一郎ら東京音楽学校の出身の声楽家らがビクターに入社し、中山晋平の作品を歌い、いずれもヒットを記録。洋楽の手法で日本人の情緒感と原始的郷愁を踏まえた作品を残した。1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。1944年(昭和19年)、日本音楽著作権協会の理事長に就任。1948年(昭和23年)には会長となった。1952年(昭和27年)12月2日、自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で鑑賞。その翌日に膵臓炎で倒れ、30日3時30分、入院先の熱海国立病院で死去。享年65。告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家・佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、児童合唱団による『てるてる坊主』、最後には『カチューシャの唄』が歌われた。


中山晋平(1887~1952)_f0368298_01101721.jpg



日本に流行歌を創始した作曲家・中山晋平。昭和初期の大衆音楽普及時代に、日本のヨナ抜き音階やリズムの特徴を生かした「晋平節」といわれる独特の様式をつくりあげ、庶民的なメロディースタイルを確立した。童謡・民謡・校歌・流行歌など約3000曲を世に送り出し、「日本のフォスター」と呼ばれた中山晋平の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「中山家霊塔」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「清楽院晋山明響居士」。

by oku-taka | 2019-10-13 12:07 | 音楽家 | Comments(0)