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和田妙子(1911~2007)

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和田 妙子(わだ たえこ)

ダンサー
1911年(明治44年)~2007年(平成19年)

1911年(明治44年)、朝鮮半島忠清南道大田に生まれる。旧姓は山田。幼い頃からダンサーに憧れ、鎮南浦にある女学校を卒業後、1928年(昭和3年)に単身上京。松竹楽劇部(SKD)の1期生に合格し、16歳で初舞台を踏んだ。その際にもらった芸名は「水の江たき子」であったが、「ひらがなが気に入らなかったから」と同期生の「東路道代」と名前を交換。 後に名前を交換した同期生・三浦ウメは、名を「水の江瀧子」と改名し、「男装の麗人」として一世を風靡した。松竹楽劇部に入ってすぐに振り付けの先生と結婚するも、19歳で未亡人となる。1934年(昭和9年)、ジャズ歌手のリキー宮川と再婚。一方、スパニッシュダンサーの川上スズコに師事。歌と踊りのイルミナーテを公会堂にて行う際に、夫の前座として踊りを披露していたが、1938年(昭和13年)に離婚。離婚を期にアメリカへダンサーとして渡ろうと決心するも、アメリカの友人より「ダンスをするのであれば、世界中の舞踏家が集まる上海に行きなさい」と諭され、上海に渡った。当地では、優秀なアメリカ人マネージャーのハロルド・ミルズと出会い、フランスのムーランルージュで女形をやっていたドン・パスコーラを紹介され、師事。 抗日感情が強い世界での活動であったため、名前を「マヌエラ」として、1939年(昭和14年)上海ナイトクラブ「カサノバ」にてデビューを果たす。当時日本人の入り込めないフランス租界、米英共同租界において、国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてスパニッシュを踊るクラブダンサーとして活動。「魔都の花」として人気が沸騰し、“エキゾチック・マヌエラ” “ミステリアス・マヌエラ”と呼ばれ上海を席巻した。市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の『ペルシャンマーケット』を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。 国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を『ペルシャンマーケット』に変えたという。1941年(昭和16年)、ユニバーサル映画副社長のサーキンにスカウトされ、アメリカへ進出しようと荷物も送った4日後の12月8日に真珠湾攻撃となり、日米開戦が始まったため夢が途絶える。開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束された。1943年(昭和18年)、上海日本人街にて「大和洋行」を設立するなどの実業家(実際は陸軍の工作員)であり、熱烈のマヌエラのダンスファンであった和田忠七と出会い、後に三度目の結婚。終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。1946年(昭和21年)、和田と共に日本へ引き揚げる。戦後、東京のNHK側に喫茶店「モレナ」を経営。その後、内幸町に戦後初のナイト・クラブ「マヌエラ」を経営。上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばすなど、東京の社交界で知らぬ者はいない存在となる。 オープニングの司会をE・Hエリックが務めたこともあり、三島由紀夫、犬養健、麻生太賀吉、力道山、古垣鉄郎、マッカーサーなども顔をみせていたという。また「マヌエラ」は日本のジャズ・マン達の登竜門となり、ジョージ川口、マーサ三宅、前田憲男などが巣立っていった。妙子は戦後日本のジャズの育ての母とも言われている。波瀾に満ちた生涯を描いた作品は多く、小説『ルーズベルトの刺客』(著者:西木正明)のモデルや、自著『上海ラプソディー ~伝説の舞姫マヌエラ自伝~』など多数有る。80歳になると日本舞踊を習い始めるなど、老いてもなお意気盛んであったが、2007年(平成19年)5月18日午後、心不全のため東京都八王子市の病院にて死去。享年95。


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戦時下の上海において国籍不明のトップダンサーとして絶大な人気を誇った伝説の踊り子、「ミス・マヌエラ」こと和田妙子。フランス・米英共同租界のクラブでスパニッシュを踊った彼女は、「魔都の花」として上海の街を見事に席巻した。市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には『ペルシャンマーケット』を踊るマヌエラの大きな写真が飾られるなど、マヌエラの妖しさに男性の誰もが虜となった。戦後、内地に引き上げた彼女はクラブを経営し、日本のジャズ・マン達を育てた母となったが、後年その波瀾に満ちた生涯を描いた作品が多く発表され、再び注目を浴びた。2002年には『徹子の部屋』に出演し、流れてきた『ペルシャンマーケット」』にリズムをとる 90歳の老婆が何とも愛おしかったのをよく覚えている。戦時下の中国大陸に華と咲いたミス・マヌエラこと和田妙子の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓所には、十字架を刻む洋型墓石と五輪塔の二基が建ち、和田が納められている洋型墓石には「和田忠七 妻 妙子 我は復活なり 生命なり 山田富紗子」とある。背面に墓誌が刻まれているが、妙子の名前はない。
by oku-taka | 2019-09-22 19:32 | 芸術家 | Comments(0)