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石坂洋次郎(1900~1986)

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石坂 洋次郎(いしざか ようじろう)

作家
1900年(明治33年)~1986年(昭和61年)

1900年(明治33年)、青森県弘前市代官町に生まれる。弘前市立朝陽小学校時代は病弱であったが、席次はいつも学級内で2、3番であった。一方、読書が好きで、時事新報社が発行していた雑誌『少年』を毎月講読。5、6年生の頃には友人と雑誌を作って少年小説や冒険小説を連載していた。その後、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部に入学。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、酒に酔った葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。1925年(大正14年)、慶應義塾大学文学部を卒業。青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。翌年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務した。葛西文学への反撥から健全な文学を志し、教員生活を勤めるかたわら創作に専念。1927年(昭和2年)、処女作『海をみに行く』を発表した。以後『三田文学』をおもな発表舞台とし、『炉辺夜話』、『外交員』、『金魚』などを発表して好評を得る。1929年(昭和4年)、秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務。1933年(昭和8年)、『若い人』で三田文学賞を受賞。この完成は「出来るだけ一般の人々を喜ばせる」(『短い感想』)ことを目的とする石坂文学の開花を意味し、同作によって作家的地位を確立した。1936年(昭和11年)、壊滅寸前の当時の左翼運動を批判して問題を投じた『麦死なず』を発表。1938年(昭和13年)、軍人誣告罪で告訴される。そうしたことから右翼団体より圧力をうけ、教員を辞職。これを機に上京して、作家活動一本に絞った。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。戦後は解放された素朴で健康な青春の賛歌を綴った『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化されたことで一大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となった。その後、土着的なエロチシズムのあふれる地方庶民生活を描いた『石中先生行状記』、『丘は花ざかり』、『陽のあたる坂道』、『あじさいの歌』などの新聞小説を執筆し、その多くの作品が映画・ドラマ化された。1965年(昭和40年)、『水で書かれた物語』を発表。異常な近親相姦を扱い,主題の深刻さが注目された。1966年(昭和41年)、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受賞。しかし、石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語った。還暦を超えてなお人気作を量産していたが、1971年(昭和46年)に夫人が亡くなったことがきっかけで執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、随筆などを時折記す悠々自適の生活に入る。1976年(昭和51年)に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は、往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示す。1977年(昭和52年)には、戦中に執筆しながら連載途中で中絶していたフィリピン従軍記「マヨンの煙」に未発表原稿を加え、綿密な校訂を経て出版。30余年ぶりに陽の目を浴びせた。後年は三田文学会長を務め、若手作家の面倒見もよく慕われていたが、1978年(昭和53年)頃から認知症の症状が徐々に出始め、1980年(昭和55年)頃には徘徊や親族の顔の認識すら出来ない状態になっていたという。さらには肥満が原因による心臓肥大や高血圧の症状など体調は悪化の一方を辿り、1982年(昭和57年)には医師から余命半年の宣告が下る。それを受けて、せめて僅かな月日を穏やかに過ごさせたいという家族の想いから、長年住み慣れた田園調布の地を離れ、伊東市へ転居する。転居費用や生活費は自宅の売却や印税収入で賄い、家族に金銭的な面倒は掛けたくないという健在だった頃の本人の意思は守ることが出来た。伊東へ移ってからは体調も安定し、時折詩を書くなど、家族の想いをまさに汲んだように穏やかな月日を送ったという。1986年(昭和61年)10月7日、老衰(硬膜下出血)のため伊東市の自宅で死去。享年86。死の直前には「これでよし」と呟き、自他共に納得の大往生だった。


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戦前・戦後の大衆小説界でヒット作を連発した石坂洋次郎。故郷の青森で教師生活を送りながら小説を書き続けた異色の作家は、独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品を次々と発表し、「健全な作家」といわれた。しかし、彼の作品の多くに露骨な性描写が挿入されているのだが…それであっても「健全な作家」と評されたのは、そう感じさせない清廉な文章力を持っているということなのかもしれない。1960年代の日活で製作された青春映画のほとんどは石坂洋次郎原作によるものであり、今や大物となった当時のスターたちが瑞々しい演技でスクリーンを彩ったおかげで、「石坂洋次郎=庶民的な明るさと正義感を持つ作品」というイメージが培われたようにも思える。大衆に愛された作家・石坂洋次郎の墓は、青森県弘前市の貞昌寺と東京都府中市の多磨霊園にある。妻の亡き後、後者に墓を建てたが、洋次郎の死後に故郷である前者の寺にも墓が建立され、妻とともに分骨された。後者の洋型の墓には「石坂家」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「一乗院隆誉洋潤居士」。
by oku-taka | 2019-09-22 17:37 | 文学者 | Comments(0)