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渡辺和子(1927~2016)

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渡辺 和子(わたなべ かずこ)

修道女
1927年(昭和2年)~2016年(平成28年)

1927年(昭和2年)、当時、陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎の次女として北海道旭川市に生まれる。幼少期は父・錠太郎の転勤で台湾や東京の地を転々とした。父は1935年(昭和10年)教育総監に就任したが、1936年(昭和11年)の二・二六事件で青年将校によって暗殺される。青年将校らは約30人で東京都杉並区上荻の渡辺家私邸に踏み込み、軽機関銃を乱射。居間にいた錠太郎は全身に40発以上もの銃弾を受けて死亡。その様子を当時9歳の和子は、わずか1mほどの距離から目の当たりにした。父の死後、母から「お父さまの名を決して汚さない人になりなさい」と厳しく言われて育った和子は、「父が死のうと誰が死のうと涙を流すものではない。人の悪口も言わない。つらいことはじっと我慢する」と繰り返し自分に言い聞かせて日々を過ごすようになる。1945年(昭和20年)、雙葉高等女学校(現材の雙葉中学校・高等学校)在学中に友人から「和子さんは鬼みたい」と言われたことから、「少しはましな人間になって、父のような惨めな死に方はしたくない」と考え、キリスト教(カトリック)の洗礼を受ける。一方で、「1番になること」を目標に勉強に励み、在学時でも良い成績を残していた和子だったが、国立に憧れてお茶の水女子大学を受験。しかし、結果は不合格となり、大きな挫折を味わう。その後、聖心女子大学に通いながら上智大学に出来た国際学部の学部長秘書として教務や経理を担当し、軍人恩給が途絶えた一家の家計を支えた。1954年(昭和29年)、上智大学大学院西洋文化研究科修士課程を修了。雙葉を経営する修道会・サンモール会(現在の幼きイエス会)に入会を希望するも、当時29歳という入会ギリギリの年齢であったことから断られてしまう。その後、知人の紹介でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。入会後、ただ一人の日本人として、アメリカにある修練院に行くことを命ぜらる。私物を持つことは許されず、ひたすら単純労働と、祈りを続ける日々を送り、1962年(昭和37年)6月、ボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得し、帰国。同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任した。1963年(昭和38年)、36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任。以後27年間にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。一方で、『美しい人に』『「ひと」として大切なこと』『愛と励ましの言葉366日』など、キリスト教のヒューマニズムに基づいた生き方や心の持ちようを説くエッセイを数多く執筆するほか、メディアにも積極的に出演。マザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍した。しかし、そうした多忙さに加え、新しい学部や付属幼稚園、小学校の新設、修道会の管区長という重責も担うようになり、1977年(昭和52年)にうつ病を発症する。自死も考えるほど症状が悪化したことから、入院と投薬治療を受け、2年後に回復。この病気を経験し、気づかなかった他人の優しさ、自分の傲慢さに気付いて、より優しくなったと後に語っている。1990年(平成2年)、ノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。1992年(平成4年)には、日本カトリック学校連合会理事長に就任した。1995年(平成7年)、膠原病を発症。その治療薬の副作用で背中の骨が損傷し、身長が14センチも縮んでしまう。2012年(平成24年)、著書『置かれた場所で咲きなさい』が200万部を超えるベストセラーとなる。2016年(平成28年)、旭日中綬章を受章。同年9月30日までノートルダム清心女子大学の講義に立っていたが、12月30日に膵臓癌のため死去。享年89。没後、数年前に膵臓癌を発症し、闘病の傍ら仕事を続けていたことが明らかとなった。


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ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』で一躍その名を知られることになった修道女の渡辺和子。ノートルダム清心学園のシスターとして神に仕えたその生涯は、人並みならぬ数々の苦難の連続だった。9歳のとき、二・二六事件で陸軍総監だった父親を目の前で殺され、希望した小学校、大学、修道会に不合格となる挫折の繰り返し。36歳の若さで学長に抜擢されたものの、周囲の目は冷たく、学園で孤立。50歳には鬱病となり自殺も考えた。そうした幾多の苦しみに耐えられたのは、ある神父から贈られた一遍の詩「置かれた場所で咲きなさい」だったという。自身を取り巻く環境を憂うのではなく、その場所でどうすれば自分らしく「咲く」ことができるのかを考える。苦しい時には物事の見方を変え、自ら行動を起こすことの大切さ。その実践を女子大での人格教育や自身の暮らしに活かし、最後まで多くの人の心をやさしく癒し続けた。シスター・渡辺和子の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「陸軍大将渡邉錠太郎之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2019-09-22 14:33 | 学者・教育家 | Comments(0)