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川田晴久(1907~1957)

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川田 晴久(かわだ はるひさ)

コメディアン
1907年(明治40年)~1957年(昭和32年)

1907年(明治40年)、東京府東京市本郷区根津(現在の東京都文京区)に生まれる。本名は、岡村 郁二郎(おかむら いくじろう)。印刷所を経営する家に生まれたが、少年時代は大変貧しかった。この上、家々の屋根を棒で飛び越えるという遊びに興じていた際に転落。この不慮の事故により脊椎カリエスを患うことになり、これが終生川田を悩ませる病となる。その一方で、音楽好きな少年に育ち、独学でハーモニカやヴァイオリンに親しんでいた。1930年(昭和5年)、浅草音羽座でレビュー歌手・川田義雄としてハーモニカを持ってデビュー。当時、絶大な人気を誇ったテナー歌手・藤原義江に傾倒していたことから、テノールを表す「川」とローカルカラーを表す「田」、それに藤原義江からの「義」を取って、川田義雄を芸名として名乗ったとされている。その後、様々な一座を転々とし、浪曲の虎造節をジャズにアレンジした“川田節”で売り出す。1933年(昭和8年)、吉本興業(東京吉本)に入社。永田キング(当時有名だった外国のコメディ俳優マルクス兄弟の模写などで人気を博す)のグループ「永田キング一党」に加わり、ステージで活躍する。1937年(昭和12年)、伝説のボーイズ第一号「あきれたぼういず」を結成。メンバーであった坊屋三郎によると、流行歌にオチを付けた漫談をしようとの狙いから、流行していた美ち奴のヒット曲「ああそれなのに」のパロディを浅草花月の「吉本ショウ」で演じたところ観客から大受けに受け、以後、坊屋三郎、坊屋の実弟である芝利英、益田喜頓とグループを組み、浅草を基盤とした人気コメディアンの座に駆け上がることになる。この人気に目を付けたビクターレコードでは、『四人の突撃兵』『スクラム組んで』をレコードとして発売。その後も『珍カルメン』『四文オペラ』『商売往来』といった舞台でのヒット作をレコード化し、学生やインテリ層を中心に人気を広げていった。1939年(昭和14年)には古川ロッパ主演の東宝映画『ロッパの大久保彦左衛門』にグループで映画に初出演。川田は単独でも東宝映画『東京ブルース』、『ロッパの新婚旅行』、レコードでも『浪曲ダイナ』『浪曲セントルイスブルース』を発売するなど、グループのリーダー格として徐々に台頭していく。その背景としては、昭和初期から絶大な人気のあった浪花節(浪曲)の節回し、特に広沢虎造のいわゆる「虎造節」を川田がギターに乗せて歌うという新機軸を拓いていたことにあった。日本的な浪花節のリズムをギターで巧みに演奏する川田の芸風は、それまでの三味線漫談や、エノケン・ロッパにはない新しさを以って、大衆に受け入れられた。しかし、人気絶頂だったあきれたぼういずに目を付けた新興キネマ演芸部は、吉本からの引抜を画策する。破格の条件での引き抜きであったにもかかわらず、川田は吉本ショウの劇団員であった女性と結婚したばかりであるなど様々な状況が重なって、川田を除く3人のメンバーが新興に移籍。「あきれたぼういず」は事実上解散となり、川田は新たに実弟の岡村龍雄、頭山光、菅井太郎(後に有木三多と交代)らと新生グループ「川田義雄とミルク・ブラザース」(ミルス・ブラザース(英語版)のもじりであり、乳兄弟の洒落でもある)を結成し、引き続き吉本で活躍していく。このミルク・ブラザース時代にレコード化された『地球の上に朝が来る』は川田のテーマソングとして、生涯オープニングテーマとして歌い続けた。この「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう」のフレーズは「犬が西向きゃ尾が東」という浪花節でよく用いられる対極を歌った独特のセンスを踏襲しており、ここに川田のギター漫談のスタイルが確立された。エノケン、ロッパ、エンタツ・アチャコといった喜劇のスターにたちまち肩を並べた川田は、東宝映画『ハモニカ小僧』に主演。1941年(昭和16年)には当時の大スター長谷川一夫と『昨日消えた男』(監督:マキノ正博)で共演するにまでに至った。レコードにおいても『ドレミファ物語』『バナナ物語』などをヒットさせ、この頃から『かわった数え唄』など、自身の名前をもじった「かわった○○」シリーズを川田流のパロディとして定着させていく。しかし、1942年(昭和17年)に脊椎カリエスの再発により入院。長期の治療が必要となり、一時的に復帰はするものの、療養生活を余儀なくされ、ミルク・ブラザースは解散となる。太平洋戦争開戦後は、ほとんど療養生活を余儀なくされていたが、終戦直後、轟夕起子主演の東宝映画『歌え!太陽』に出演。その後、転地療養、お灸での治療といったありとあらゆる復帰をかけた懸命な努力が奏功し、1948年(昭和23年)には「川田義雄とダイナ・ブラザース」を結成して舞台に復帰。翌年には姓名判断によって「川田晴久」と改名した。1949年(昭和24年)、横浜国際劇場に出演した際、小唄勝太郎に花束を渡す役として登場した少女・美空ひばりと出会う。川田はひばりをそばに置いて可愛がり、多くの影響を与え、また、スターへの道を拓いた。1950年(昭和25年)、自らの自伝的映画と言われる東宝映画『笑う地球に朝が来る』に主演。美空ひばりと共演した『東京キッド』『新東京音頭 びっくり五人男』『とんぼ返り道中』『母を慕いて』『底抜け青春音頭』などの他に、設立されたばかりの民放ラジオ局の番組や地方巡業などに積極的に活躍。川田の生活は多忙を極めていった。1956年(昭和31年)、映画撮影中に腎炎が悪化して倒れるが、その後、ラジオミュージカル『遠山の金さん』を製作。病床にまでラジオの器材や持ち込ませ収録を続ける執念を燃やし続けたが、1957年(昭和32年)6月21日、腎臓結核に尿毒症を併発し、東京都千代田区飯田橋の厚生年金病院で死去。享年50。


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「地球の上に朝が来る~、その裏側は夜だろう~」のフレーズで一世を風靡した川田晴久。戦前はあきれたぼういずの一員として人気を博し、戦後は喜劇映画のスターとして戦前を上回る人気者となった。放送作家・はかま満緒は川田の大ファンで、「川田と仕事がしたい」という一念で放送の世界に入ったと述懐している。しかし、1957年に50歳という若さで世を去った為、その功績はなかなか評価されてこなかった。近年、美空ひばりと行ったアメリカ公演がCD化され、再評価の気運が高まりつつある。戦前戦中戦後を笑いで包んだ川田晴久の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「川田晴久墓」とあり、左側に「川田晴久 芸の跡」と称した記念碑が建つ。

by oku-taka | 2019-09-05 18:56 | コメディアン | Comments(0)