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齋藤勇(1887~1982)

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齋藤 勇(さいとう たけし)

英文学者
1887年(明治20年)~1982年(昭和57年)


1887年(明治20年)、福島県伊達郡富野村(現在の伊達市梁川町)に生まれる。旧制福島中学校(現在の福島県立福島高等学校)在学中からキリスト教に関心を示し、1903年(明治36年)頃に福島を訪れた内村鑑三の説教を好奇心に駆られて一人で聞きに行き、中学校長に頼んで内村を招いてもらい、学校の講堂でも講演を聞く機会を得た。1905年(明治38年)、旧制第二高等学校に入学。1906年(明治39年)、日本基督教会仙台東二番丁教会にて受洗する。1908年(明治41年)2月、仙台を伝道旅行中の植村正久を二高生キリスト教青年会の寮に招き、その説教を聞く。同年、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学文科大学(英吉利文学専修)に入この頃の東大英文学科は、夏目漱石も上田敏も既に去り、日本人はひとりも教えていなかった。また、当時の東大英文学科の学風は、一つの主流が際立っていたわけではなかった。斎藤は多様な研究態度があることがむしろ望ましいと考え、夏目、上田両先達の跡を追うことはせず、独自にイギリスの宗教詩研究の道に向かった。同年9月、東京帝国大学入学時に植村牧師の富士見町教会に転会。その後19年間同教会に所属し、植村正久から薫陶を受ける。1911年(明治44年)、東京帝国大学を卒業し、恩賜の銀時計を受ける。同年、東京帝国大学大学院に入学。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学の講師嘱託に就く。母校の教壇に立ち、日本人の英文学教員として実質的に夏目漱石の後継者となった。「至誠」を終生の座右の銘とした齋藤は、後進の指導、教育にも熱意をもってあたった。彼の教えを直接受けた学生の中からは、次世代の英語・英米文学界における学者、作家、文化人が輩出しており、教え子には、中野好夫、西川正身、中島文雄、朱牟田夏雄、小川和夫、平井正穂、加納秀夫、木下順二、小津次郎、佐伯彰一など多数にのぼる。1917年(大正6年)、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学の構成母体)教授に就任。1923年(大正12年)、東京帝国大学文学部助教授に転任。同年4月から1925年(大正14年)6月まで英文学研究のため在外研究員として欧米へ出張。ロンドン、オックスフォードを中心に滞在して博士論文を執筆する傍ら、フランス、イタリア等、欧州各国及びアメリカを歴訪した。この留学中には、ラルフ・ホジソン、エドマンド・ブランデン、ジークフリード・サスーン等の詩人、学者との知遇を得て、その後生涯にわたり親交を深めている。1927年(昭和2年)、論文『詩ニ関スル「キーツ」ノ見解(Keats’ View of Poetry)』により文学博士の学位を得る。以降、文学史の研究においてその背景となるイギリス国民性および各時代思潮を重視し、まだ研究法の定まらなかった日本の学界にイギリスのA.C.ブラドレーや、W.P.ケアの重厚・精密な学風を移植した。同年、『思潮を中心とせる英文学史』を発表。英文学の全体像を大きく見通す同書は『イギリス文学史』として何度も改訂された。1931年(昭和6年)、東京帝国大学教授に昇任。1935年(昭和10年)、イギリス詩の韻文美と日本文学を対比させた『英詩概論』を発表。1937年(昭和12年)、自ら編纂を務めた『英米文学辞典』を発表。英米文学の基本的資料となる同書は、改訂を経て今なお使われている。1941年(昭和16年)、正四位に叙せられ、1943年(昭和18年)には勲二等瑞宝章を受章した。1947年(昭和22年)、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となる。1948年(昭和23年)、東京女子大学学長に就任。大学行政の職務に専念する一方で、英文学関連の授業も担当。さらには「学報」、講演、式辞等を通じて同大学の建学の精神に基づきながら、全学の学生・教職員に大所高所から戦後日本の大学のあるべき姿、女子教育のあり方などについて語った。1949年(昭和24年)、市河三喜、福原麟太郎、 大和資雄、中野好夫、豊田実たちと共に財団法人日本英文学会を設立。1950年(昭和25年)、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家・伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた「チャタレイ裁判」に検察側証人として出廷。ただし『チャタレイ夫人の恋人』が文学的に優れているとは思えないと証言したのみで終わった。1953年(昭和28年)、国際基督教大学の開学に参加。翌年には同大学の教授となる。年になっても教育の熱意は衰えることはなく、1965年(昭和40年)3月に78歳で教授職を退くにあたって、同大学での告別講演で、学生に向けて国際人としての感覚とキリスト教精神を理解するよう情熱を込めて助言している。1975年(昭和50年)、文化功労者に選出。1979年(昭和54年)、イギリスの文化と文学を日本へ紹介した功績が評価されて、 エリザベス女王よりイギリス名誉騎士勲章(Honorary Knight Commander of the Order of the British Empire)を授けられる。95歳という高齢になってもなお研究・著作の意欲は旺盛であったが、1982年7月4日午後1時20分頃、東京都新宿区の自宅書斎にて、当時27歳の孫に襲撃され、不慮の死を遂げた。享年95。死因は頭部顔面打撲による外傷性クモ膜下出血。金属製の置時計を凶器に、頭部15か所、顔面17か所、前顎部8か所、合わせて40か所の挫創が顔に集中していた。 更に眉間に刃渡り18センチの柳葉包丁が9センチもめり込んで突きたてられていた。孫は統合失調症(当時の名称は精神分裂病)を患っていた。近所の人の110番で警視庁機動捜査隊と牛込署員が駆け付けたときには既に勇は絶命していた。捜査員が手分けをして孫の行方を捜したところ、1階の家政婦の部屋の押し入れに隠れていたところを発見。不意にナイフを振りかざし警察官に飛びかかり、顔などを刺されたが、腕を掴んだまま倒れ、応援に駆け付けた他の警察官たちが取り押さえ、午後2時15分頃逮捕した。刺された警察官(警部補)は病院に搬送されたが後に死亡する。この孫は、慶応大学法学部卒業後、プリンストン大学に聴講生として留学。帰国後に慶応大学大学院に進んだが、1年足らずで中退。宗教に関心を抱き、東京神学大学に入学するが、半年後に退学し、再び渡米するも、極端な菜食主義から栄養失調となり帰国。 正統キリスト教ではない異端の宗派や神秘学にのめり込み、インドに憧れ、日本語をしゃべらなくなり、日常会話も英語だけで、わけの分からないことを口走るようになった。 心配した母は千葉県旭市の海上寮療養院に連れて行き、そこで精神分裂病(統合失調症)と診断された。事件当日も様子がおかしいことから、再入院を相談する電話を二度かけていた。警察の取り調べでは、日本語を一切話さず、英語しか語らないため、通訳をつけて行われた。この結果、祖父殺害について「悪魔が殺した」と英語で認めた。しかし、精神鑑定の結果、責任能力なしと診断され不起訴処分となった。この事件は「齋藤勇東大名誉教授惨殺事件」として当時のニュースで大きく報じられ、日本史学者の北山茂夫は「いつ身辺に何がおこるか分らぬ。勇長老は九十五才にして孫の毒手に命を失うとは、百年の光芒も凶刃のきらめきに失われるとは」と嘆いた。


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プロテスタント信仰を背景に、日本における英文学研究に学問的基礎を与えた齋藤勇。日本の英文学の発展に寄与することを生涯の使命とし、英詩の研究を中心に『ミルトン』『英詩概論』『ブラウニング研究』『シェイクスピア研究』『イギリス文学史』など数多くの著書と論文を残した。また、自己と学問に対する厳格、謹厳な態度と、その反面をなす他者に対する温情ある人柄で、中野好夫や平井正穂といった多くの後進を育てた。晩年も教育の熱意は衰えることなく、95歳という高齢になっても研究・著作の意欲を見せていたが、統合失調症を患っていた孫に襲撃されるというあまりに酷い幕引きとなった。齋藤勇の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。郷里である福島県の石で造られた墓には「齋藤家墓」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-09-03 19:56 | 学者 | Comments(0)