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大平正芳(1910~1980)

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大平 正芳(おおひら まさよし)

政治家
1910年(明治43年)~1980年(昭和55年)

1910年(明治43年)、香川県三豊郡和田村(現在の観音寺市)に生まれる。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半ですでに亡くなっていた。子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていた。和田村立大正尋常高等小学校(現在の観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現在の香川県立観音寺第一高等学校)に進学。1926年(大正15年)、三豊中4年の時に腸チフスに罹り、4か月間生死の境をさまよった。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった。1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に進学。高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年(昭和4年)暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。卒業後の進路については、大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった。就職するにせよ昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため、進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり、桃谷順天館で化粧品業に携わった。1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意し、綾歌郡坂出町(現在の坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現在の一橋大学)に進学。在学中は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した。1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していたことから住友系の企業へのあこがれを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された。1936年(昭和11年)、入省し、預金部に配属。1937年(昭和12年)、横浜税務署長に着任。当時東京税務監督局直税部長だったのが池田勇人で、以後しばしば部下として会う。1938年(昭和13年)には仙台税務監督局間税部長に就き、どぶろく退治に尽力した。1939年(昭和14年)、興亜院にて大陸経営にかかわり、張家口の蒙疆連絡部で勤務したほか、帰国後も頻繁に大陸に出張した。1942年(昭和17年)、本省主計局主査(文部省・南洋庁担当)となる。大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立について査定した。1943年(昭和18年)、東京財務局関税部長に就任。国民酒場を創設した。その後、津島壽一大蔵大臣の秘書官、初代給与局第三課長、経済安定本部建設局公共事業課長を経て、1949年(昭和24年)に池田勇人蔵相の秘書官となる。1952年(昭和27年)、池田の誘いを受け、大蔵省を退職し自由党公認で衆議院選挙に立候補し当選。以後、連続当選11回を果たす。1957年(昭和32年)、池田が宏地会を発足させると、当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一や黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる。1960年(昭和35年)、第1次池田内閣で内閣官房長官に就任。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された。第2次池田内閣・第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田内閣第2次改造内閣で外務大臣に就任した。外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」1962年11月12日)。日韓交渉で最も大きな役割を果たした。一方で、日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った。中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した。その結果、LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した。また、日米核持ち込み問題において、当事者としてアメリカとの核密約の取り交わしに関わる。1963年(昭和38年)1月にはエドウィン・ライシャワー駐日大使を通じて原子力潜水艦の寄港申し出でがあり、世間でも議論の的となった。この件については1年8か月かけて日米で技術的な照会や、原子力委員会での審議を重ねた後閣議で承認された。次の佐藤政権では政調会長を務めた後、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務め、内政外政にかかわる要職を歴任した。佐藤内閣では通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた。大平の属する派閥「宏池会」は、池田の死後前尾繁三郎が会長となり、世話人を前尾系の政治家で固めていたが、大平は派内の若手議員を集めて派中派の「木曜会」を作り、独自に政治資金の世話などをするようになった。1970年(昭和45年)の総裁選で、佐藤は「前尾が出馬しなければ内閣改造をして宏池会を優遇する」と約束するが、これが反故となったことで前尾は求心力を失う。1971年(昭和46年)、田中六助ら木曜会に担がれる形の「大平クーデター」で前尾にかわって大平が宏池会会長に就任。名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)の総裁選では3位につけ、その後も田中角栄と盟友関係を続ける。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問。それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり、田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した。保革伯仲国会で大平幹事長は「部分連合(パーシャル連合)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める。しかし、1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に、福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明。大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する。事前の世論調査では福田が有利だったが、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票を獲得。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、10年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し、「大福密約」の無意味さについて触れた。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し、12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した。大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を9つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想や総合安全保障構想などを提唱した。大平政権期の世界は、1978年(昭和53年)に発生したイラン革命と第二次石油危機の余波、1979年(昭和54年)のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年(昭和55年)のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定。福田前政権の「全方位外交」から転換し、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権となった。また、環太平洋構想によってアジア太平洋地域の経済的な地域協力を模索したり、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索したりし、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。また、歴史的、地政学の観点から、中国を重視する姿勢を打ち出し、中国の近代化に積極的協力する国策を打ち出した。同年12月に中国を訪問し、政府借款の供与、「日中文化交流協定」に調印等、後の1980年代における日中緊密化の道へと導いた。一方、日本国憲法・現皇室典範(1947年〈昭和22年〉施行)の下、法的根拠が消失していた日本の元号を、当時の元号使用の世論に鑑みて、法律に基づいて改元出来るようにした「元号法」を1979年(昭和54年)6月12日に施行した。しかし、政権基盤が強固ではなく、田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は総理就任後も続き、1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込む結果を招くと、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。大平は、両派の妥協案として浮上した「総総分離」案も拒否し、強気の姿勢をとり続ける。選挙後国会の首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果、過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派・三木派・中曽根派・中川グループが推す福田の一騎討ちとなった結果、138票対121票で大平が福田を下して、第2次大平内閣が発足した。これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。1980年(昭和55年)5月16日、社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。こうして第36回衆院選と第12回参院選が公示され、投票日は6月22日と決まった。総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労と不整脈により虎の門病院に緊急入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで、国内政局からくる心労に加え、多くの外遊をこなす激務に、70歳という高齢と、心臓の不安が重なり、肉体は限界に来ていた。大平の入院に対し、反主流派の中川一郎は、健康問題をかかえた大平では6月22日から予定されているヴェネツィアサミット出席が難しいことを理由に進退を決すべきと発言し、河本敏夫は大平の全快を祈ると前置きしつつも、国際信義上サミットの出席は早めに決すべきと記者会見で語って暗に退陣を要求し、反主流派の一部から大平おろしの声が上がりはじめた。また6月9日には大平派の鈴木善幸が、大平の後は話し合いによる暫定政権が好ましいと記者団に語り、大平派からも大平退陣について発言する動きが上がった。大平本人は近日中に退院してサミットに出席するつもりで、一時は記者団の代表3人と数分間の会見を行えるほどに回復したものの、6月12日午前5時過ぎ容態が急変。妻、家族、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら、午前5時54分、心筋梗塞による心不全のため死去。享年70。この突然の死により、官邸の方は伊東正義官房長官が総理臨時代理として内政を監督し、党の方は西村英一副総裁が総裁代行として選挙戦の采配にあたり、サミットの方は大来佐武郎外務大臣が大平の代理として首脳会議に出席するという、異例の総理総裁権限の分散によりこの危機を乗り切ることになった。現職総理の死去という想定外の事態は状況を一変させ、自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かった。有権者の多くも自民党候補に票を投じ、「香典票」と呼ばれた同情票も自民党有利に働いたとされ、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した。葬儀は7月9日に内閣と自民党の合同で行われた。党内からは現職首相の死亡なので国葬という意見もあったが、控えめのほうが大平にふさわしいという伊東の主張により内閣・自民党合同葬となった。現職の総理大臣の葬儀のため、カーター米大統領、華国鋒中国首相をはじめ、108カ国の代表が式典に参列した。没後、大勲位菊花大綬章を追贈された。


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第68・69代内閣総理大臣を務めた大平正芳。大変な読書家で、かつ敬虔なクリスチャンとして知られ、「戦後政界指折りの知性派」と評されたが、演説の答弁の際に「あー」「うー」と前置きすることから「あーうー宰相」と呼ばれ、こちらのほうが有名になってしまった。「あー」「うー」は当時の流行語となり、またその風貌と口の重さから「讃岐の鈍牛」との異名を付けられた。そうした揶揄と、在職中に故人となってしまったことから、イマイチ評価が定まっていない政治家の一人である。三木武夫・田中角栄・福田赳夫からなる三角大福の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。第2次オイルショックの最中に、日本の石油輸入量を確保するために奮闘するなど、膨大な読書量に裏打ちされた政策展開を行った知性派・大平正芳の墓は、東京都府中市の多磨霊園と、香川県豊浜の豊浜町墓地公園にある。前者の墓域には3基の墓が建ち、左側に大平家の墓、真ん中に大平正芳の墓、右側に正芳長男の大平正樹の墓がある。正芳の墓には直筆による「大平正芳」が刻まれており、背面には盟友で首相臨時代理をつとめた伊東正義官房長官の直筆「君は永遠の今を生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず たおれて後已まざりき」が刻む。左袖には「大平正芳の碑」が設置されている。
by oku-taka | 2019-09-02 00:42 | 政治家・外交官 | Comments(0)