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岡本太郎(1911~1996)

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岡本 太郎(おかもと たろう)

画家
1911年(明治44年)~1996年(平成8年)


1911年(明治44年)、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子の長男として、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)に生まれる。父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。 母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。そうした芸術一家に生まれ、既存概念にとらわれる事がなく育った太郎は、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。その為か、1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返し、慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師・位上清に出会う。太郎はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。一方、絵が好きで、幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。その後、一平が朝日新聞の特派員としてロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学。1929年(昭和4年)に神戸港を出港し、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年(昭和7年)頃にパリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んだ。同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品『水差しと果物鉢』を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。その後、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国。滞欧作『傷ましき腕』などを二科展に出品して受賞。個展も開いた。1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。1945年(昭和20年)、長安で半年ほど俘虜生活を経たのち帰国。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表。当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。1948年(昭和23年)、 花田清輝、埴谷雄高らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに安部公房らが参加した。1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加。 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを移し、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。1960年代後半にはメキシコを訪れ、ダビッド・アルファロ・シケイロスなどによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに代表作のひとつとされる『明日の神話』であった。同じ頃、1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を太郎に要請した。万博のテーマである「人類の進歩と調和」に反発していた太郎は、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、先に設計が完成していた大屋根の模型を見るなり「70mだな」と呟き、穴の空いた大屋根から顔を出す『太陽の塔』を設計した。この日本万国博覧会は各方面に影響を与え、『太陽の塔』も1975年(昭和50年)に永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。画家として華々しい活躍を見せる一方、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演。1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。1987年(昭和62年)にはNHKのテレビドラマ『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。老いを重ねても創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。この頃からパーキンソン病を患い、1996年(平成8年)1月7日、パーキンソン病による急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて死去。享年84。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれた。


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「芸術は爆発だ!」で知られる画家の岡本太郎。「調和とは、ぶつかりあうこと」を信条とし、彼の人生は常に何かとのぶつかりあいで形成されていた。漫画家の父・岡本一平と。小説家の母・岡本かの子と子供の頃から対等に意見をぶつかりあわせ、幼稚園時代は教師に反発。パリ留学中に「抽象と現実のぶつかり合い引き裂かれた所に、人間の本当の存在がある」と考え、抽象とも具象とも言えない独自の絵画を確立した。代表作『太陽の塔』も、日本万国博覧会のテーマ「人類の進歩と調和」に反発し、「それとは正反対のものをバーンとぶつけてやろう」と考えた末に出来たものだった。常に格闘しながら製作に燃えた岡本太郎の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。広大な岡本家墓域の左側に太郎の墓があり、ブロンズで造られた1967年(昭和42年)制作の『午後の日』を墓碑としている。右側には養女の岡本敏子が逝去した際に建立した墓誌がある。なお、正面右側に一平の墓、かの子の墓がある。正面には川端康成の辞が彫られている碑がある。

by oku-taka | 2019-09-01 21:48 | 芸術家 | Comments(0)