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熊谷守一(1880~1977)

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熊谷 守一(くまがい もりかず)

画家
1880年(明治13年)~1977年(昭和52年)


1880年(明治13年)、岐阜県恵那郡付知(現在の中津川市付知町)に生まれる。子供時代から絵を好み、12歳頃からは水彩画を描きはじめる。17歳で上京し、芝公園内にある私立校正則尋常中学に転校するが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、1897年(明治30年)に慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入。1学期間だけ通って中退する。1898年(明治31年)、共立美術学館に入学。しかし、1899年(明治32年)に召集され、徴兵検査で乙種合格となる。1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。在学中に山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行を行い、1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけては樺太調査隊に参加しスケッチを行う。1909年(明治42年)自画像『蝋燭』を発表。闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞した。1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職についたが、1915年(大正4年)に再び上京。第2回二科展に「女」を出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。1922年(大正11年)、42歳で大江秀子と結婚。5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれたが、絵が描けず貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べている。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまった。陽の亡骸を熊谷は絵に描いている(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたという。 1929年(昭和4年)、二科技塾開設に参加。後進の指導に当たった。1938年(昭和13年)、同じ二科会会員の濱田葆光の強い薦めで墨絵(日本画(毛筆画))を描き、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる。1947年(昭和22年)、二紀会創立に参加。しかし、1951年(昭和26年)に二紀会を退会。無所属作家となる。この頃から単純化・象徴化した画風を深め、晩年は抽象絵画に接近した。1956年(昭和31年)、軽い脳卒中で倒れる。以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送る。1967年(昭和42年)、「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退。1972年(昭和47年)には勲三等の叙勲も辞退した。1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため死去。享年97。


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「画壇の仙人」と称された孤高の画家・熊谷守一。富裕層に生まれながらも極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、名声を得た後も、「これ以上人が来るようになっては困る」といって国からの勲章を断ってしまう、かなりの奇人であった。晩年は東京・池袋郊外にあった木々が生い茂る自宅兼アトリエからほとんど一歩も外に出ず、身のまわりの虫や猫やチョウなどを描いた熊谷守一。浮世離れしていた仙人の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。自然石で造られた墓には「熊谷家墓」とあり、その上に腰掛ける人間の形をしたオブジェが置かれている。左側には寝石による墓誌がある。

by oku-taka | 2019-09-01 19:14 | 芸術家 | Comments(0)