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東野英治郎(1907~1994)

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東野 英治郎(とうの えいじろう)

俳優
1907年(明治40年)~1994年(平成6年)


1907年(明治40年)9月17日、群馬県富岡市七日市に生まれる。旧制富岡中学卒業後、明治大学商学部に入学。在学中に学内の非合法サークル・社会科学研究会に入り、左翼思想に目覚める。1931年(昭和6年)4月、劇団築地小劇場のプロレタリア演劇研究所に第1期生として入り、東京左翼劇場公演の『恐山トンネル』(三好十郎作)で初舞台を踏む。研究所卒業後の同年9月、新築地劇団に入団。本庄 克二の芸名で端役として舞台に立つ一方、プロレタリア運動に従事する。新築地の公演のほとんどに出演し、『ハムレット』の亡霊、『坂本龍馬』の人斬り以蔵、『人生劇場』の呑込み半助などを演じて徐々に頭角を現す。1937年(昭和12年)、『渡辺崋山』『嗤う手紙』で好評を博し、以来『土』の平造、『綴方教室』の由五郎、『ハムレット』の墓掘りの役で俳優としての地位を固めていった。1939年(昭和14年)には『土』の勘次、『海援隊』の馬之助などの大役を演じ、その傍ら劇団の書記長、企画部長、演技部長を務め、劇団の中心俳優となった。舞台活動の一方、1938年(昭和13年)に衣笠貞之助監督の『黒田誠忠録』で映画に初出演し、松竹下加茂撮影所の準専属として数本に出演したほか、日活の『海援隊』や東宝映画の『彦六なぐらる』等にも出演した。 1940年(昭和15年)8月19日、新劇弾圧で八田元夫、池田正二らとともに治安維持法違反で検挙され、8月23日に劇団は強制解散される。1941年(昭和16年)、いったん釈放され、南旺映画製作の映画『流旅の人々』に出演。同年5月、不起訴で正式に釈放されるが、内務省の命令で本名で活動することとなり、松竹太秦撮影所で内田吐夢監督の『鳥居強右衛門』など数本に出演後、大船撮影所に移籍する。1944年(昭和19年)、小沢栄太郎、千田是也、青山杉作、東山千栄子らと共に俳優座を結成。同時に日本移動演劇連盟に加入し、芙蓉隊を組織して地方を巡演する。戦後は俳優座の中心として『検察官』『中橋公館』『赤い陣羽織』『夜の来訪者』などで主要な役を演じた。俳優座劇場設立にも尽力し、後に同劇場取締役を務めた。映画では脇役として数多くの作品に出演。黒澤明監督作品には『七人の侍』『用心棒』など計7本、小津安二郎監督作品には『東京物語』『秋刀魚の味』など計4本、木下惠介監督作品には『結婚』『楢山節考』など計9本に出演。そのほか浦山桐郎監督『キューポラのある街』、山本薩夫監督『白い巨塔』など一流監督の名作や、社長シリーズ、クレージー映画といった人気シリーズなどに出演し、日本映画界を代表するバイプレーヤーとなった。1954年(昭和29年)、『黒い潮』『勲章』で第5回ブルーリボン賞 助演男優賞を受賞。1956年(昭和31年)、『夜の河』『夕やけ雲』『病妻物語 あやに愛しき』で毎日映画コンクール 男優助演賞を受賞。1958年(昭和33年)、『千鳥』で週刊読売演劇賞を受賞。1962年(昭和37年)、『キューポラのある街』『秋刀魚の味』で2度目の毎日映画コンクール 男優助演賞を受賞。1964年(昭和39年)、『有福詩人』『教育』で第10回テアトロン賞を受賞。1968年(昭和43年)、『あらいはくせき』で紀伊国屋演劇賞 個人賞を受賞。1969年(昭和44年)、TBS系列の時代劇『水戸黄門』に主演。主役の徳川光圀を第1部から第13部まで足掛け14年、全381回にわたって演じ、東野の代表作となった。「じゃがいも黄門」の名で親しまれ、お茶の間で絶大な人気を博したが、1982年(昭和57年)7月8日に高齢による気力体力の減退等を理由に黄門役の降板を表明し、1983年(昭和58年)4月11日の第13部の最終話が最後の放送となった。1975年(昭和50年)、紫綬褒章を受章。1982年(昭和57年)、勲四等旭日小綬章を受章。1990年(平成2年)、日本新劇俳優協会の会長に就任。その後も散発的に俳優活動を行っており、1994年(平成6年)4月5日に都内で開かれた俳優座創立50周年記念パーティーには杖を突いて出席した。同年5月にはテレビ東京で放送されたテレビ東京開局30周年、俳優座創立50周年記念ドラマ『荒木又右衛門 男たちの修羅』で加納藤左衛門役とゼネラルプロデューサーを務めたが、足腰が弱まり外出をしなくなる。それから4カ月後の9月8日午前6時、自宅で心不全のため死去。享年86。


東野英治郎(1907~1994)_f0368298_12531702.jpg

初代『水戸黄門』としてお茶の間に愛された東野英治郎。足かけ14年にわたって徳川光圀役を演じ、その庶民的な風貌と独特な高笑いで「じゃがいも黄門」と呼ばれ親しまれた。その一方で、戦前から戦後を通じて名脇役として活躍。小津安二郎、木下惠介、黒澤明といった巨匠たちに愛され、特に小津映画『秋刀魚の味』で見せた漢文教師のひょうたん役は、泥酔の演技を通して老いの哀れさを実に上手く見せていた。生涯に出演した舞台が170本以上、映画の本数が330本以上といわれ、生前は日本で最も出演回数が多い性格俳優と言われた東野英治郎。彼の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「東野家之墓」とあるのみで墓誌はない。

by oku-taka | 2019-08-27 14:34 | 俳優・女優 | Comments(0)