人気ブログランキング | 話題のタグを見る

円谷一(1931~1973)

円谷一(1931~1973)_f0368298_16114769.jpg

円谷 一(つぶらや はじめ)

演出家・特撮映画監督
1931年(昭和6年)~1973年(昭和48年)

1931年(昭和6年)、円谷プロダクションの初代社長で特撮映画監督の円谷英二の長男として東京都に生まれる。学習院大学卒業後、ラジオ東京→東京放送(テレビ事業は現在のTBSテレビ)に入社。演出部にてディレクターとしてテレビドラマを制作。『おトラさん』や『純愛シリーズ』といった作品にも携わっていた。ここで、金城哲夫、実相寺昭雄、満田かずほ、冬木透といった、後に円谷プロを支えるメンバーと出会う。1962年(昭和37年)、東芝日曜劇場で放送された『煙の王様』で芸術祭文部大臣賞を受賞。1963年(昭和38年)、TBSがテレビ映画の自社製作を行なうために映画部を設立すると、飯島敏宏、中川晴之助らとともに映画部に移籍。同年、円谷特技プロダクション(後の円谷プロダクション)が設立。円谷英二と金城哲夫を中心にテレビの仕事『ウルトラQ』が立案される。一は企画そのものに関わっていなかったが、TBS製作であったことから脚本が目に留まり、その中で「あけてくれ!」を気に入ったことから演出に参加。TBS初の特撮テレビ映画『ウルトラQ』の制作にあたった。一の初演出は「宇宙からの贈り物」であり、作品28本中7本を担当しました。その後も、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といった特撮番組の監督を務め、「ミイラの叫び」や「オイルSOS」に登場する怪獣(ドドンゴ、ペスター)は、いずれもぬいぐるみ(着ぐるみ)に演技者が二人入る斬新なものを採り入れた。また、東京一(ひがしけいいち)の筆名で『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』の主題歌作詞も手がけた。このほか、奇抜な演出方法が周囲に理解されずTBSで干されていた実相寺昭雄を拾うなど、シリーズの隆盛に力を尽くした。1970年(昭和45年)、父・英二の病死によりTBSを退社。円谷プロダクションの社長に就任する。社長就任後は、財政難から危機的な経営状況にあった同社の経営建て直しに奔走。社長と監督は兼任できないと宣言して、以降はプロデューサーとして作品に携わるようになる。同年、『ウルトラファイト』の制作を開始。この番組の人気により、本格的な特撮番組を求める声が高まると、1971年に『帰ってきたウルトラマン』と『ミラーマン』(フジテレビ)をプロデューサーとして制作し、第二次怪獣ブームの火付け役となる。以降、『ウルトラマンA』等の番組の制作にも携わるが、社長就任以降、営業や接待に奔走した結果、持病だった糖尿病、および高血圧が悪化。妻と離婚し、赤坂のクラブのママと再婚するなど、生活も乱れた。1973年(昭和48年)2月9日、起床直後に脳溢血を発症して突然倒れ、病院に搬送されたが間もなく死去。享年41。父親の死からわずか3年後のことであった。


円谷一(1931~1973)_f0368298_13523411.jpg

円谷一(1931~1973)_f0368298_13552325.jpg

円谷一(1931~1973)_f0368298_13523350.jpg

円谷一(1931~1973)_f0368298_13523477.jpg

円谷プロダクションの2代目社長として第二次怪獣ブームを巻き起こした円谷一。TBSのテレビドラマ黎明期に活躍し、父の特撮ものとは全く無縁の世界を生きていた息子だったが、ひょんなことから特撮に関わることになり、果ては円谷プロダクションを支える屋台骨となった。また、金城哲夫、実相寺昭雄といった後の名匠たちを育てたことも特筆すべき功績である。41年の短い生涯を全速力で駆け抜けた円谷一の墓は、東京都府中市のカトリック府中墓地にある。洋型の墓には「円谷家」とあり、背面には墓誌が刻む。その右横には円すい状の石の上に、天へと高く伸びる金色のオブジェが建てられており、その足下には怪獣とウルトラマンが供えられている。

by oku-taka | 2019-08-21 11:45 | 映画関係者 | Comments(0)