人気ブログランキング | 話題のタグを見る

円谷英二(1901~1970)

円谷英二(1901~1970)_f0368298_13523303.jpg

円谷 英二(つぶらや えいじ)

特撮映画監督
1901年(明治34年)~1970年(昭和45年)


1901年(明治34年)、福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)に生まれる。本名は、圓谷 英一(つむらや えいいち)。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。1904年(明治37年)、母が次男出産後に病死。婿養子だった父は離縁され、英一は祖母に育てられる。祖母の家系には、日本に銅版画や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がおり、7歳のときには自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭した。1908年(明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。成績は優秀で、絵の腕も大人が驚く出来だった。1910年(明治43年)、東京の代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は飛行機乗りに憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。1911年(明治44年)、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持つ。貯金をして子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を作った。1912年(大正元年)、新聞に載った一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。1916年(大正5年)、米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。尋常高等小学校8年生の課程を終えた後、同年10月に上京。京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが、一月余りで退社。1916年(大正5年)11月、家族が大反対する中、操縦士を夢見て、玉井清太郎の紹介で、東京航空輸送社が8月に開校したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学。入学金は当時で600円(新築の家が二軒建てられた値段)したが、叔父の一郎が工面してくれた。1917年(大正6年)、日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗し、一機しか無い飛行機が墜落。教官・玉井清太郎の死も重なり、また、同年に起きた高潮災害で設備や機材も喪失し、同校は活動停止に陥る。夢破れた英二は退学し、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)に入学する。この頃、学費の足しにと、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社の考案係嘱託となり、「自動スケート」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、玩具の考案で稼ぐ。1919年(大正8年)、新案の玩具が当たって「500円」という多額(当時)の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工達を引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工達が隣席の者達と喧嘩を始めた。年若い円谷がこれを仲裁したことで、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に認められ、映画界に入ることとなる。同社はこの年、国際活映(国活)に吸収合併され、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影する。 1920年(大正9年)、会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社。国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。1921年(大正10年)、20歳で兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班所属となる。 1923年(大正12年)、除隊。祖母の家業専念の誘いを拒み上京。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影した。1924年(大正13年)、震災後、各映画撮影所が京都へ移ったため、円谷もこれを頼って京都に居を移し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに所属する。 1926年(大正15年)、衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。一方、キャメラマンたちからは先進的な撮影手法が反発を買い、「ズボラヤ」と呼ばれる。1927年(昭和2年)、林長二郎(後の長谷川一夫)初主演作『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でカメラマンを担当。林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。1928年(昭和3年)、正式に松竹京都下加茂撮影所に入社。『怪盗沙弥磨』が入社第1作となる。1930年(昭和5年)、自費を投入して、移動撮影車や木製のクレーンを制作する。この頃、「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上のおじの名が「一郎」だったので、遠慮して「英二」を名乗るようにしたという。1931年(昭和6年)、渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。この頃、「アイリス・イン」「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込んだ。しかし、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマン達には理解できず、「何をやっているのかわからないズボラヤだ」と揶揄された。さらに「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内で反発を受け、撮影待遇を、セットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をくっきり映すものであり、こうした撮影手法はタブーだったのである。円谷はこの待遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)やミニチュア撮影を投入したりした。またこの頃、研究資金と生活費の足しにと、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条通の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置されたこの写真ボックスは大評判となる。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。1932年(昭和7年)、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人らと日本カメラマン協会を結成する。同年、犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。1933年(昭和8年)、日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。同年、映画『キング・コング』が日本で公開される。試写で同作を鑑賞した円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した。この年の末に日活幹部立会いの下、スクリーン・プロセスのテストを行うが不調に終わる。1934年(昭和9年)、市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。 同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。 12月、『百万人の合唱』で大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用する。1935年(昭和10年)、2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦し、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。同年、アニメ作家・政岡憲三と組み、人形アニメ映画『かぐや姫』を撮影。1936年(昭和11年)、ナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用。この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンク監督は「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市(こうたいそ とりおいおいち)』で、監督、撮影、編集すべてを手掛けた。1937年(昭和12年)9月10日、株式會社冩眞化学研究所、PCL映画製作所、東宝映画配給の3社と、円谷の所属するJOが合併し、「株式会社東宝」が設立される。これに伴い、米国の映画産業の中心地ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に砧の「東宝東京撮影所」に移る。ところが東京撮影所のカメラマン達から「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽な反発を受け、円谷は撮影ができなかった。そこで森は円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることとした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、後に円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの実験にかかる。1939年(昭和14年)、特殊技術課に隣接する線画室に、鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、個人的に円谷のオプチカル・プリンターの助手を務めた。この年、陸軍航空本部の依頼があり、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画(「文化映画」)を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は1人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露してみせ、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)した。この夏頃から、円谷は特技課に川上景司、奥野文四郎、向山宏、天羽四郎、西浦貢、渡辺善夫、上村貞夫らを招き、人材の充実を図る。1940年(昭和15年)、『海軍爆撃隊』で初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影。経歴上初めて「特殊撮影」のクレジットがついた。この『海軍爆撃隊』は文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時大評判となった。同年9月、『燃ゆる大空』で特撮を担当し、『日本カメラマン協会特殊技術賞』を受賞する。1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入。これに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく。1942年(昭和17年)、阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であると評判をとる。同年12月8日、特撮の腕を存分に振るった『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒット。撮影中から皇族や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールのハワイ・真珠湾の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。本作で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任する。また、この作品で美術スタッフに渡辺明、利光貞三が加入した。同年、国産初のオプチカル・プリンターが完成。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成が出来たという。1943年(昭和18年)、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹へと移籍。円谷率いる特技課は大打撃を被る。しかし、1944年(昭和19年)には『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』『あの旗を撃て』『かくて神風は吹く』といった作品の全ての特撮を担当。同年、東宝は創立記念日に、山本嘉次郎とともに円谷を功労者表彰した。1945年(昭和20年)、『勝利の日まで』『間諜海の薔薇』『北の三人』の特撮を担当。同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦。除隊後、『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)の特撮を担当する。戦後の活躍もめざましく、1946年(昭和21年)には東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当した。しかし、撮影所は3月から翌年10月まで東宝争議に突入。労働組合はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画製作どころではなくなった。1947年(昭和22年)1月、東宝は「部課制」を廃止して「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分けられる。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命される。しかし政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気のさした円谷は、この役職を捨て、東宝を離れ独立する。1948年(昭和23年)3月、連合国軍最高司令官総司令部の公職追放によって「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を依願退職。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散する。失職した円谷は困窮の極みとなる。6月、福井県福井市の福井駅前の大和百貨店から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し出荷するも、折りしも福井を襲った福井地震によって駅に到着した全機を失うという憂き目に遭う。フリーとなった円谷は東京・祖師谷の自宅の庭にプレハブを建て、「円谷特殊技術研究所」を設立。『富士山頂』(新東宝)、『肉体の門』(吉本プロ)、『颱風圏の女』(松竹大船)の特撮を担当。同研究所は他に大映京都などの映画の特撮部門を請け負っっており、1949年(昭和24年)には京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。大映はこの作品を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意し、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出している。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念する。1950年(昭和25年)、円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの「円谷特殊技術研究所」を移設。主に合成処理を請け負う。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。円谷はこの年から4年間東宝全ての本編・予告編のタイトルを撮影しており、東宝映画の「東宝マーク」を有川とともに作ったのもこの時期である。また、この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第1作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いである。1952年(昭和27年)2月、日本独立後の公職追放解除を受ける。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。 5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込む。7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化した。1953年(昭和28年)、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させる。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。こうした中、満を持して戦記大作『太平洋の鷲』が企画される。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の本多猪四郎とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。この年、日本初の立体映画(トービジョン)作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。 また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込む。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案の一つとなったとしている。1954年(昭和29年)、田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。1955年(昭和30年)、『ゴジラの逆襲』で、世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。1956年(昭和31年)、日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣ラドン』を担当する。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降これが定番フィルムとなる。 また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝で賄いきれない合成処理や、人形アニメ撮影などをこちらで行う。1957年(昭和32年)、東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れて再編成する。同年、『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。 1959年(昭和34年)、6200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。1960年(昭和35年)、『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』撮影のため、東宝撮影所内に東洋一の規模である三千坪の特撮用大プールが完成。また、妻マサノの熱心な勧めでカトリック教徒となる。同年、当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかける。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、アニメ会社ピープロを設立していた鷺巣に協力を依頼。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展するが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫してしまった。1961年(昭和36年)、前年に引き続きアニメ技術の導入に意欲を燃やし、鷺巣らと組んで、特撮とアニメを組み合わせた長編映画の企画をいくつか検討。『双子の一寸法師』という長編実写・動画映画を企画した。1963年(昭和38年)、東宝との専属契約を解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、「株式会社円谷特技プロダクション」を設立し、社長に就任。フジテレビの映画部にいた息子円谷皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一、中野稔、佐川和夫、金城哲夫らをスタッフに招き、同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した。 この年、フジテレビは円谷皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込む。最終的に局の事情でこの企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だった。このため、TBSの映画部にいた長男の円谷一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうこととした。1964年(昭和39年)、TBSでは円谷一の下、円谷特技プロから引き受けたオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を生かしたテレビ特撮番組として『UNBALANCE』を企画。この企画は同プロ初のテレビ作品『ウルトラQ』となり、有川貞昌や小泉一、川北紘一ら東宝の特撮スタッフも多数参加した。白黒作品ながら全編映画用の35mmフィルムを使用するという破格の体制で、9月27日より制作開始される。1965年(昭和40年)、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『怪獣大戦争』で「日本映画技術賞」を受賞。『キスカ』では、白黒映画の限界に迫るリアルな艦船シーンに公開当時、「実写か? 特撮か?」と議論が起こった。1966年(昭和41年)1月2日、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組作りもあり、同番組は大ヒット。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすこととなった。続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターはさらに怪獣ブームを煽った。これらのヒットによって「円谷英二」の名はお茶の間の隅々にまで知れ渡ることとなり、特撮の神様とまで呼ばれるようになった。一方、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決まり、カナダへ外遊してモントリオール万国博覧会を視察した。1967年(昭和42年)、『キングコングの逆襲』公開。円谷は戦前に研究した『キング・コング』の1シーン(恐竜との格闘)を完全にリメイク。 また、この年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「ゴジラシリーズ」から身を引き、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。1968年(昭和43年)、「株式会社円谷特技プロダクション」を、「株式会社円谷プロダクション」と社名変更する。1969年(昭和44年)、『緯度0大作戦』『日本海大海戦』が最後の特撮劇場作品となる。一方、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影が多忙を極め、このサークロマ撮影のため鳴門の渦潮をロケし、さらに特撮プールに自ら入り演出。これがたたって体調を崩すが撮影を強行し、一時入院。12月に静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移す。しかし、1970年(昭和45年)1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去。享年68。没後、勲四等瑞宝章を授与された。


円谷英二(1901~1970)_f0368298_13523411.jpg

円谷英二(1901~1970)_f0368298_13552325.jpg

円谷英二(1901~1970)_f0368298_13523350.jpg

円谷英二(1901~1970)_f0368298_13523477.jpg

「特撮の神様」と評された円谷英二。特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残した。海外では、小津・溝口・黒澤に次いで知名度が高く、カーク・ダグラスが自身プロデュースの監督に円谷を指名するほどであった。「なめ(画面の手前に物を置く撮影手法)」の技法や「クレーン撮影」など今では当たり前のように使われている撮影手法を次々に生み出し、それまでの映画では撮影不可能なシーンを生み出し続けた。東宝の黄金期を支えたのみならず、日本映画に大きく貢献した円谷英二の墓は、東京都府中市のカトリック府中墓地にある。洋型の墓には「円谷家」とあり、背面には墓誌が刻む。その右横には円すい状の石の上に、天へと高く伸びる金色のオブジェが建てられており、その足下には怪獣とウルトラマンが供えられている。洗礼名は「ペドロ」。
by oku-taka | 2019-08-17 14:26 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)