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西城秀樹(1955~2018)

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西城 秀樹(さいじょう ひでき)

歌手
1955年(昭和30年)~2018年(平成30年)

1955年(昭和30年)、広島県広島市東蟹屋町(現在の東区東蟹屋町)に生まれる。本名は、木本 龍雄(きもと たつお)。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に馴染み、ジャズスクールに通って、最初はエレキギター、その後ベース、次いでドラムを勉強した。小学3年の時、ジェフ・ベックのファンになったが、同世代には洋楽を聴く者は誰もおらず、音楽の話は兄たちとした。小学4年生の時にその兄とエレキバンド「ベガーズ(beggars)」を結成。小学生ドラマーとして活動し、GS全盛期の1968年(昭和43年)に兄が中3、自身が中1のとき、広島市立二葉中学校の文化祭でステージ演奏をし、学内の女生徒から大人気となる。ボーカルに魅力を感じるようになったのはこの頃からであり、すでに既成概念としてロックを認識していただけでなく、ビートルズは勿論、ビートルズ以降に生まれた多様なジャンルのロックを現在進行形で自然に吸収し、ザ・ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、シカゴなどの洋楽に影響を受けた。その一方、結構なワルで小さな頃は喧嘩ざんまい。中学では縄張り争いを繰り広げ「売られた喧嘩で負けたことはいっぺんもない」と豪語した。このほか自宅前の荒神陸橋によじ登ったり、無免で単車を乗り回し巡査に何度も油を搾られた。高一のときには、駅のトイレで他校生15人からリンチを受け、兄貴と仲間で仕返ししたこともある。兄らが卒業したため中学2年のとき「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成。このバンドでリードボーカルとなり、「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第一回、第二回に出場。中国大会で優勝した。 中学以降もバンド活動を続け、米軍岩国基地や佐世保基地のライブハウスなどにも出演。山陽高等学校一年の1971年(昭和46年)、R&B喫茶「パンチ」から声がかかり、店のレギュラーバンドになる。その後、店で歌唱していたところをスカウトされる。本来、歌手には興味がなかったが、当時、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』がヒットしており、歌謡曲が変わり始めた時期と感じてスカウトを承諾した。しかし、父親が頑固で厳格な人であったため芸能界入りを猛反対。その反対を押し切り、高校一年の二学期途中の10月3日、家出同然で広島から夜行列車で上京。芸能事務所「芸映」に所属。明大中野高等学校定時制へ転校する。1972年(昭和47年)3月25日、日本ビクター(現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)のRCAレーベルよりシングル『恋する季節』で歌手デビュー。キャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。片仮名の「ヒデキ」が愛称となる。しかし、オリコン42位という結果に終わり、順風満帆なスタートとはいかなかった。最初の頃のキャンペーンはジャンプスーツでリンゴ箱に乗り、パラパラのお客相手に歌った。それが功を奏したのか、2枚目のシングル『恋の約束』は18位となり、徐々にファンを拡大。続く『チャンスは一度』では振付けが付き、一躍トップアイドルの仲間入りを果たした。郷ひろみ、野口五郎と共に「新御三家」と呼ばれるようになったが、この年の12月31日、郷ひろみは新人賞受賞で『第14回日本レコード大賞』の本選に出場し、野口五郎は『第23回NHK紅白歌合戦』に白組最年少で初出場したが、西城は大晦日の高視聴率番組には出演できず、同じ「新御三家」でも知名度で差をつけられることになった。1973年(昭和48年)6月25日、5枚目のシングル『情熱の嵐』がオリコン週間チャートで初のベストテン入り。新曲発表会では、空からヘリコプターで派手に登場し、ヘリコプターから縄ばしごを伝ってはしごの下まで降り、片手で手を振った後、ステージに着地するというスタントマン紛いの演出を行い話題をさらう。また、曲中に「ヒデキー!!」とファンの掛け声が入った。以降、オリコンベストテンに11年連続、計33曲を送り込む。その後『ちぎれた愛』、『愛の十字架』が連続してオリコン週間チャートの第1位を獲得。絶唱型と言われる歌唱法を披露。『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞する。新曲を発表するごとに人気が高まり、急激な人気の上昇でレコードプレスが間に合わず、発売後10日間で50万枚をプレスを記録し、レコード売上げの短期間最高記録といわれた。12月31日には『第15回日本レコード大賞』歌唱賞を獲得するも、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選した。同年、「ヒデキ、感激!!」でお馴染みの「ハウスバーモントカレー」のテレビ広告が放送開始した。1974年(昭和49年)1月16日、ホームドラマとして人気を博したTBS系列テレビドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演。俳優としても活動する。2月25日には『薔薇の鎖』を発売。日本武道館で観たロッド・スチュワートのマイク・パフォーマンスからヒントを得たスタンド・マイクを使ったアクションが話題になる。5月25日発売の『激しい恋』は売り上げ58.4万枚の大ヒットとなり、年間シングルチャートでも第8位に輝いた。7月13日、初主演の松竹映画『愛と誠』が公開。原作者である梶原一騎に西城自身が直談判して出演が決まった。8月3日、日本で初めてとなるスタジアムでのワンマン・コンサートを大阪球場で開催。12月31日、『傷だらけのローラ』で2年連続となる日本レコード大賞歌唱賞を受賞。「第25回NHK紅白歌合戦」にもトップバッターとして初出場した。1975年(昭和50年)11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う。その後11年連続(通算12回)開催し、「秋(静)の日本武道館」と「夏(動)のスタジアム・コンサート」は恒例となる。 1976年(昭和51年)、この年から作詞者に阿久悠を起用。この年発売した3曲『君よ抱かれて熱くなれ』『ジャガー』『若き獅子たち』は「青年(成年、盛年)の3部作」と呼ばれた。特に『ジャガー』は、臀部の割れ目が見えそうなセクシーな衣装と、「抱いてやるー!」と絶叫するセリフが話題となった。この曲で「東京音楽祭」国内大会でゴールデン・カナリー賞を受賞し、世界大会にも出場した。1978年(昭和53年)2月9日、『ブーツをぬいで朝食を』が「ザ・ベストテン」で第1位を獲得。この曲の反響でライター・ボヤ事件起こる。6月18日、『炎』で「第7回東京音楽祭」世界大会に出場し、外国審査員団賞を受賞。1978年(昭和53年)、『ブルースカイブルー』で初の最優秀歌唱賞を受賞(『FNS歌謡祭'78』)。阿久悠と組んだ最後の曲。1979年(昭和54年)、「Y.M.C.A.」の4文字を全身で表現する『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が売り上げ80.8万枚の大ヒット。年末の賞レースは、第10回『日本歌謡大賞』、『FNS歌謡祭'79』、第5回『日本テレビ音楽祭』、『'79 あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭』でグランプリを獲得。『第21回日本レコード大賞』は邦楽が審査対象とされたため、社会現象までになった『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』は外国人作曲のカバー曲という理由で審査対象から外れ『勇気があれば』でエントリー。ジュディ・オング『魅せられて』との激しい大賞争いとなったが敗れた。1981年(昭和56年)4月6日、『リトルガール』でオリコン史上初となるシングル30曲ベストテン入りを果たす。続く『セクシーガール』で、ピンク・レディー、森進一、山口百恵、沢田研二に次いで史上5組目となるシングルレコードの総売上枚数1,000万枚を突破する。同年、香港で初のコンサートを開催し、その後もアジア各国でコンサートを行う。1983年(昭和58年)1月21日、スタッフと共に芸映を円満退社し独立。有限会社(現在は株式会社)「アースコーポレーション」を設立し、第1弾シングル『ギャランドゥ』を発表する。以降、グラハム・ボネットの『Night Games』、ワム!の『Careless Whisper』、バリー・マニロウの『In Search of Love』をカヴァーする等、それまでの歌謡曲の枠に囚われることなくロック系、バラード系の曲にも意欲的に取り組むようになる。2000年(平成12年)、『最後の愛』を最後にビクター音楽産業系(RCA⇒RVC⇒BMGビクター)からポリドールへ移籍し、『Bailamos』をリリース。以降はユニバーサルミュージック系(ユニバーサルJ・ナユタウェイブレコーズ)から楽曲をリリースする。2001年(平成13年)、長らく独身であったが、大阪府在住の会社員の一般女性と結婚。長女、長男、二男に恵まれた。同年の秋、脳梗塞を発症。2003年(平成15年)6月21日、つんく♂がプロデュースしたシングル『粗大ゴミじゃねぇ』を発表した直後、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末に復帰。しかし、これ以降「隠れ脳梗塞」を含め計8回の脳梗塞を発症し、人知れず闘病生活を送ることになる。2011年(平成23年)には脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と微細な言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた。しかし、2018年(平成30年)4月25日、自宅の家族団欒の席で突然倒れて救急搬送で緊急入院。意識不明の状態が続く中懸命の治療が行われたが、5月16日23時53分、急性心不全のため神奈川県横浜市内の病院で死去。享年63。


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戦後の歌謡界を代表するトップスターの一人、西城秀樹。派手なアクションと絶叫型と呼ばれたその歌唱スタイルに多くの女性が虜となった。演歌・ムード歌謡・アイドルなどの曲が大半を占めていた歌謡界にロックテイストを持ち込んだ先駆者であり、今日のJ-POPを築いた功労者でもある。殊に80年代以降の日本のロックヴォーカリストたちは、西城秀樹や沢田研二をテレビで触れたことを「音楽のめざめ」とする者が多い。このほか、野球球場でのコンサート開催、ファンとのコール&レスポンス、ペンライトなど、今のライブでは当たり前となった事象を行った初のシンガーでもあった。晩年は数度にわたる病との闘いを強いられたヒデキだったが、諦めずに病へと懸命に立ち向かう姿は多くの者を勇気づけた。それだけに、63歳での旅立ちはあまりに残念だった。亡くなる直前までステージに立ち続けることにこだわった炎のシンガー・西城秀樹の墓は、東京都目黒区の円融寺にある。生前購入した土地に子供たちが「パパといったら炎だよね」と、炎をイメージした墓をデザイン。そこには「木本家」と彫られ、その左側に墓誌が建つ。後ろにはヒデキの楽曲名が刻まれている。戒名は「修音院釋秀樹」。

Commented at 2020-01-15 02:26 x
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by oku-taka | 2019-08-16 19:31 | 音楽家 | Comments(1)