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平尾昌晃(1937~2017)

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平尾 昌晃(ひらお まさあき)

歌手・作曲家
1937年(昭和12年)~2017年(平成29年)

1937年(昭和12年)、東京府東京市牛込(現在の東京都新宿区)に生まれる。出生名は、平尾 勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には「昌晃」とした。父親は大手化粧品会社レートクレーム本舗の3代目社長であり、両親が人を呼んでよく自宅でダンスパーティーを開催していたことから、家族全員がクラシックの楽器演奏ができ、自身も邦楽好きの父のお供で練習に行ったり、洋楽を聴いていた。 小学2年生のとき、空襲で代々木の600坪の家が焼け、神奈川県の湘南エリアにあった別荘に移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る。小学3年生のとき、アメリカ人将校の前で『キス・オブ・ファイア』などの歌を披露し、そのお礼としてジャズのLPを貰う。それを聴いた平尾は衝撃を覚える。11歳のとき、のど自慢大会に出場し『奥様お手をどうぞ』を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう。その後、藤沢市のジャズ教室に通い、朝丘雪路、水谷良重、ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド「チャック・ワゴン・ボーイズ」に入る。しばらくしてボーカルの小坂一也が脱退したため「オールスターズ・ワゴン」に改名した。1957年(昭和32年)、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する。自身としても、1958年(昭和33年)1月、キングレコードより『リトル・ダーリン』でソロデビューを果たす。続いて同年3月に発表した『監獄ロック』が10万枚を売り上げるヒットとなる。その後、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した。1958年(昭和33年)にはキングレコードからオリジナルナンバーである『星は何でも知っている』を歌い、50万枚を売り上げる大ヒットとなった。1959年(昭和34年)、ポール・アンカが作詞・作曲した『好きなんだ! (I Love You)』を発表。日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI(英語版)が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった。同年12月にはハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」に日本代表として歌唱した。1960年(昭和35年)、自身が作詞・作曲した『ミヨチャン』を発表し、40万枚を売り上げる大ヒット。その後は、童謡や民謡をロックにアレンジして歌った。1965年(昭和40年)2月20日に拳銃不法所持で逮捕される。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と、名古屋と東京の暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した。平尾は22日間拘留され、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された。この一件で謹慎に追い込まれ、またロカビリーブームも去り、芸能界から姿を消す。謹慎中は東京五輪の売れ残りグッズの行商などをして生計を立てていたが、同じ頃に北海道のラジオ局・HBCラジオのDJだった三浦陽二が1961年(昭和36年)に発表された『おもいで』を番組で流したことで、同曲が注目を浴びる。同局のリクエストランキングでは、当時の最新ヒット曲だった加山雄三の『君といつまでも』、ビートルズの『イエスタデイ』、倍賞千恵子『さよならはダンスの後に』を抑えて1位にまでなった。それに伴い、既に廃盤となっていた本作シングルは再プレスされて北海道限定盤として発売し、3万枚を売り上げた。この思いがけないヒットにより、平尾は久々に脚光を浴びるきっかけを得ることになった。1966年(昭和41年)、渡辺プロダクション所属でキングレコードからデビューした新人歌手・布施明のシングルとして『おもいで』がレコーディングされる。布施はこの曲のヒットによりスター街道を歩むことになり、平尾自身も歌手から作曲家へ本格的に転向することになった。続けて、作曲家として『恋』、じゅん&ネネ『愛するってこわい』などがヒット。中でも布施明の「霧の摩周湖」、梓みちよの「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年(昭和43年)12月3日に結核を患い、健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、肋骨を6本取り除く大手術を受ける。1969年(昭和44年)11月30日に退院。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている。1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャンらに提供している。特に作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。 1972年(昭和47年)、小柳に提供した『瀬戸の花嫁』で第3回日本歌謡大賞を受賞。1973年(昭和48年)、五木に提供した『夜空』が第15回日本レコード大賞を受賞する。1974年(昭和49年)、平尾昌晃音楽学校(現在の平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人、畑中葉子、川島なお美、石野真子、松田聖子、川崎麻世、大沢逸美、森口博子、芳本美代子、倖田來未、後藤真希など。1978年(昭和53年)には生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、『カナダからの手紙』『ヨーロッパでさよなら』などのヒットを出した。また、音楽活動のみならず、NHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会や『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABC発テレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた。その反面、結核で闘病した経験からチャリティー活動にも関心を持ち、1975年(昭和50年)に各地の施設を慰問する『愛のふれあいコンサート』を開始。同年には「平尾正晃プロアマチャリティーゴルフトーナメント」を開催し、晩年までチャリティー活動を精力的に行った。1993年(平成5年)にはゴルフのプレー中に心筋梗塞で倒れたが、同行していた医師の懸命な治療により見事復活した。2003年(平成15年)、紫綬褒章を受章。2005年(平成17年)、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。2006年(平成18年)、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』で同年3月に逝去した宮川泰の後を受け『蛍の光』の指揮者に就任。第67回までの11年間を務めた。しかし、2014年(平成26年)の年末に原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態に陥る。このときは奇跡的に持ち直したが、翌年に肺癌が判明。体力面を考慮して手術を回避し、以降は呼吸補助器を携行して公の場に出ていた。その後は入退院を繰り返し、2017年(平成29年)5月に「息苦しい」と訴えて約1か月にわたり入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と東京都新宿区の病院で検査入院。肺炎の疑いで入院したが、食欲も旺盛で元気だった。しかし、7月21日に容体が急変。同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年79。


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戦後の歌謡界を代表するヒットメーカーの一人、平尾昌晃。歌手としては、山下敬二郎、ミッキー・カーチスとともに「ロカビリー御三家」として絶大な人気を誇り、ロカビリーブームの立役者となった。作曲家としては、『瀬戸の花嫁』『よこはま・たそがれ』など世代を超えて愛される数々のヒット曲を生み出した。そんな大物でありながらテレビ番組にも積極的に出演し、司会者や審査員として気さくな人柄で親しまれた。自分の教え子とデュエットしたり、提供した歌をテレビでセルフカヴァーしたりと、とにかく目立ちたがり屋というイメージが強かった彼だが、いまにして思えばテレビに出てタレント活動する作曲家の走りだったのかもしれない。生前「僕はいまだにジャンルなんて考えていない。演歌の作曲家とも思っていないし、ポップスの作曲家だとも思っていない。音が好きな作曲家であると思っている」と語っていた平尾昌晃。ジャンルにとらわれない昭和の大作曲家の墓は、東京都台東区の谷中霊園にある。没後、後妻と三男の間で遺産を巡る骨肉の争いが起き、長らく納骨が見送られていたが、2019年の三回忌において先祖代々が眠る谷中霊園に納められたことが発表された。墓には「平尾家之墓」とあり、右横に墓誌が建つが平尾の名前は刻まれていない。戒名は「慈嚴院照音晃道居士」。

by oku-taka | 2019-08-16 14:03 | 音楽家 | Comments(0)