2019年 08月 11日
中川博之(1937~2014)
中川 博之(なかがわ ひろゆき)
作曲家
1937年(昭和12年)~2014年(平成26年)
1937年(昭和12年)、日本統治時代の朝鮮の京城府(現在の韓国・ソウル市)で生まれる。1945年(昭和20年)、戦火を逃れ朝鮮北部の陽徳で食堂を営む祖父の元に疎開する。その後、太平洋戦争の敗北とともに数ヶ月の逃避行を経て京城に戻り、収容所で徴兵から復員して来た父と劇的な再開を果たす。しかし、その翌日に極度の過労から母が急性肺炎で死去する。1946年(昭和21年)、母の遺骨を抱き、引揚船で日本に帰国。父の故郷・岡山県新見市哲多町宮河内に暮らしたが、父の再婚相手となった義母とそりが合わず、母親の故郷である山口県光市で一足先に帰国した祖母の元に移る。新見中学校在学中、祖母からギターをプレゼントされる。「学校に行くときは押し入れに大事にしまい、早く帰って弾きたいと思っていた。嬉しい時も悲しい時もギターだった」と語るほど夢中になり、この頃から作曲を始める。新見高等学校に進学すると『湖畔の宿』が好きだった母の影響を受けて音楽家を志すようになり、1955年(昭和30年)に単身上京。カメラの下請け工場、ガソリンスタンド、劇団のマネージャー業など様々な職種に就きながら音楽を勉強する。1962年(昭和37年)、CMソングのオーディションに合格。「いずみたくミュージックオフィス」を前身とするCMソングの制作会社「国際芸術協会」に在籍し、プロの道へと進む。当時、広告代理店のプロデューサーだった内田康夫と数多くのCMソングを発表。デビュー作となったチョコレートのCM曲を皮きりに、大手企業のCM曲を多く手がける。この頃、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で、黒沢明とロスプリモスのメンバーと出会う。1966年(昭和41年)、彼らのためにオリジナル曲『ラブユー東京』を製作。『涙とともに』のB面曲として収められ、初回出荷はわずか1000枚に留まったが、発売から半年後に山梨県甲府市のホステスの間で『ラブユー東京』が話題になり、また内田康夫が制作に係わった深夜ラジオで連夜『ラブユー東京』を流したところ次第に知名度が上がる。1967年(昭和42年)7月、同品番でジャケットデザインを差し替え、『ラブユー東京』がA面曲に昇格する。オリコンシングルチャートが正式に発表されるようになった1968年(昭和43年)1月4日付で1位を獲得し、ミリオンセラーとなる。同曲の大ヒットで記念すべき1曲目の1位獲得曲となった。これによってクラウンレコードの専属作曲家となり、以来、ムード歌謡界の第一人者として活躍。『たそがれの銀座』(黒沢明とロス・プリモス)、『足手まとい』(森雄二とサザンクロス)、五十嵐 悟(いがらし さとる)の別名で『わたし祈ってます』(敏いとうとハッピー&ブルー)といったヒット曲を世に送り出した。また、美川憲一とは『新潟ブルース』以降のゴールデンコンビとなり、『お金をちょうだい』『さそり座の女』『ナナと云う女』など多くのヒット作を提供した。2014年(平成26年)6月11日、肺癌のため死去。享年77。没後に日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。
生涯に1,500曲以上を残したムード歌謡の第一人者・中川博之。男女の機微を哀愁漂う切ないメロディーで描き、『ラブユー東京』『夜の銀狐』『わたし祈ってます』といったヒット曲を次々世に送り出した。特に美川憲一とは多くの作品でコンビを組み、『新潟ブルース』『さそり座の女』などをヒットさせた。この人なければ、今の美川憲一の存在はあり得なかったであろう。これほどのヒットメーカーであるのに、亡くなった際の訃報の扱いの小ささには呆れると共に怒りを感じたものだった。ムード歌謡をというジャンルを見事に築き上げた中川博之の墓は、東京都港区の梅窓院にある。細長く造られた墓には、直筆で「中川博之」と彫られ、その下には「中川博之主要作品」として代表作が刻まれている。