2019年 08月 02日
星新一(1926~1997)
星 新一(ほし しんいち)
作家
1926年(大正15年)~1997年(平成9年)
1926年(大正15年)、星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一の長男として、東京府東京市本郷区曙町(現在の東京都文京区本駒込)に生まれる。本名は、星 親一。幼少期は母方の祖父・小金井良精の家がある本郷で育つ。東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中在学中に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級、旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現在の東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。星は高校を2年で終え、1948年(昭和23年)には新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で東京大学農学部農芸化学科を卒業。高級官吏採用試験である高等試験(のちの国家公務員I種試験、現在の国家公務員総合職試験)に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。そのため東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了。1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻。会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われた。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が大下宇陀児に注目され、当時江戸川乱歩の担当編集だった「宝石」に転載されて作家デビューを果たす。1958年(昭和33年)、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加した。1960年(昭和35年)、「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。また「弱点」「雨」などショートショート6編で直木賞候補となる。同年、横山光輝原作の実写版テレビドラマ「鉄人28号」でSFアドバイザーとしてクレジットされる。1962年(昭和37年)、ショートショート集『人造美人』、『ようこそ地球さん』(旧バージョン)、『悪魔のいる天国』で第15回日本推理作家協会賞の候補となる。1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。1968年(昭和43年)、ショートショート集『妄想銀行』で第21回日本推理作家協会賞を受賞。以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始。1983年(昭和58年)秋には「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。1994年(平成6年)、口腔癌と診断され、手術を受ける。入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現在のせんぽ東京高輪病院)で間質性肺炎のため死去。享年71。
「ショートショート」の神様と呼ばれた人気SF小説家・星新一。その作品は実に1000編を超える多作で、いずれも質の高さは今なお評価されている。彼の凄い点は、作品の中で描かれている世界がまるで未来を予見しているかのような点が多いところである。電話線で経由させた情報をコンピューターで管理させネットワークで全国でつながれた世界を描いた『声の網』、人間一人ひとりに番号を割り当てて全てはその番号さえあれば何でもできるというマイナンバー制度を彷彿とさせる『番号をどうぞ』等、挙げれば枚挙にいとまない。しかし、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは星本人ですら分からなかったという。空想の世界に生きた星新一の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「星家之墓」とあり、両側面に墓誌が刻む。