人気ブログランキング | 話題のタグを見る

伊志井寛(1901~1972)

伊志井寛(1901~1972)_f0368298_11295102.jpg

伊志井 寛(いしい かん)

俳優
1901年(明治34年)~1972年(昭和47年)

1901年(明治34年)、東京府東京市牛込区神楽坂(現在の東京都新宿区)に落語家4代目三升亭小勝と竹本清之助の長男として生まれる。本名は、石井 淸一。1906年(明治39年)、5歳で父と死別する。17歳まで銀座の商家に奉公に出ていたが身に合わず、1919年(大正8年)に文楽座の竹本津太夫の門に入り、竹本津駒太夫の名で初舞台を踏む。ところが満20歳の徴兵検査を機に文楽界を退き、1922年(大正11年)に松竹蒲田撮影所へ入社。伊志井寛と改名し、1923年(大正12年)公開の野村芳亭監督映画『女と海賊』等に脇役として出演。1924年(大正13年)、帝国キネマが松本英一監督映画『籠の鳥』の大ヒットで利益を上げ、その資金で各社の名俳優・監督を引き抜いたが、伊志井も五月信子、正邦宏らと共に引き抜かれて小阪撮影所に入社する。ここでも多数の作品に出演したが、1925年(大正14年)4月に首脳部の内紛に端を発した会社出直しに伴う同撮影所閉鎖で伊志井を含む従業員400人以上が解雇される。その後、伊志井は同撮影所長であった立石駒吉が跡地に設立した東邦映画製作所に入社するが、わずか数ヶ月で給料不払いとなり、解散となった。1927年(昭和2年)、作家の菊池寛に招かれて新劇協会に加入。『三月三十二日』『クノック』等に初めて主演を務め、「新劇の星」といわれて注目される。1928年(昭和3年)、久保田万太郎の勧めで新派劇に加入し、喜多村緑郎の門下となる。新派劇の花形として人気を集め、花柳章太郎と並ぶ若手スターといわれた。1938年(昭和13年)、花柳章太郎、大矢市次郎、柳永二郎、川口松太郎らと新生新派を結成し、川口松太郎、泉鏡花の作品を中心に上演し、人気を博する。同劇団は戦後の1949年(昭和24年)に解散するが、同年に劇団新派を結成し、大幹部として屋台骨を支える。特に『婦系図』の主税などを当たり役とした。その一方で映画、テレビドラマにも意欲的に出演しており、1959年(昭和34年)から1972年(昭和47年)まで放映されたTBSテレビ系列の東芝日曜劇場人気シリーズ『カミさんと私』(全33作)では、同じく劇団新派に所属していた京塚昌子と共演し、その好々爺ぶりはお茶の間に親しまれた。1967年(昭和42年)、紫綬褒章を受章。1972年(昭和47年)4月、明治座の舞台に出演中に倒れ慶応病院一号に入院。同月29日、肝臓癌のため死去。享年71。折りしもTBSテレビ系列の国民的人気ドラマ『ありがとう』に出演中であり、本作が遺作となった。


伊志井寛(1901~1972)_f0368298_11295247.jpg

伊志井寛(1901~1972)_f0368298_11295268.jpg

テレビ黎明期に多くのホームドラマに出演し、味わい深い父親像を演じた伊志井寛。文楽から芸能界に入り、蒲田から帝国シネマに引き抜かれて映画スターとなり、舞台人を志して新劇の役者、果ては新派に流れ着いた流転の人生。この豊富な芸歴が血となり肉となり、新派きっての名優として花開いた。晩年は妻の連れ子でTBSのプロデューサーであった石井ふく子の作品に多く出演。理解のある渋いお父さん像という新境地を開拓し、いぶし銀の演技を極める矢先の死となった。伊志井寛の墓は、東京都台東区の瑞輪寺にある。墓には「先祖代々墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「藝海院永照日寛居士」。

by oku-taka | 2019-06-23 12:29 | 俳優・女優 | Comments(0)