2019年 06月 02日
前川春雄(1911~1989)
前川 春雄(まえかわ はるお)
実業家・第24代日本銀行総裁
1911年(明治44年)~1989年(平成元年)
1911年(明治44年)、東京都に生まれる。府立五中、一高を経て、1935年(昭和10年)に東京帝国大学法学部を卒業。日本銀行に入行し、イタリア駐在、ドイツ駐在となって海外の金融事情を勉強。国際金融のスペシャリストとして歩みを進める。その後、高松支店長を経て、1958年(昭和33年)にニューヨーク駐在参事となる。1960年(昭和35年)、外国為替の局長に着任。1963年(昭和38年)には外国局長と理事を兼任した。1970年(昭和45年)、日本輸出入銀行に転出し、副総裁に就任。1974年(昭和49年)、副総裁として日本銀行に復帰。1979年(昭和54年)、森永貞一郎の後を受け、第24代日本銀行総裁に就任。副総裁には、輸銀時代の上司であった澄田智(後任の第25代日銀総裁)を据え「逆転人事」として話題を呼んだ。日銀総裁就任後は第2次オイルショックによるインフレーションにどう対処するのかという難題に取り組まねばならなかった。前川はそこで絶妙な金融引締め政策を実施し、結果、他の先進諸国がインフレにもがき苦しむ中で、日本経済が最も上手にこの危機を乗り越えることが出来た。石油危機後もマネーを安定させることに成功。日本経済はインフレなき成長を達成し、前川日銀による政策運営は国際的に高い評価を得た。1984年(昭和59年)、大蔵省出身の澄田智に総裁職を譲り退任。日銀退任後の前川は、折からの日米貿易摩擦への対応を取りまとめる任を負った。1985年(昭和60年)、中曽根康弘内閣が設置した私的諮問機関である経済構造調整研究会の座長に就き、「内需拡大と市場開放」を謳った報告書(前川リポート)を取りまとめた。前川リポートやアメリカ側の対日強硬姿勢については、小宮隆太郎等、国内外の経済学者から批判が寄せられたが、結局、この前川路線が日本のその後の規制緩和・対外開放の動きを規定することとなった。1986年(昭和61年)、国際電電の会長に就任。1989年(平成元年)9月22日、死去。享年78。
日本銀行総裁として第2次オイルショックに金融引き締め政策を取り、インフレの克服に尽力した前川春雄。当時の日銀は政府の機嫌を損ねればいつ総裁を解任されてもおかしくなかったが、前川は公定歩合の引上げを断行し、時の内閣総理大臣だった大平正芳に直訴。結果、インフレは沈静化に向かい、世界各国が混迷に陥る中で日本だけがその危機から脱出できた。これにより国際的にも名声を得た前川春雄の墓は、東京都渋谷区の仙寿院にある。兄で建築家の前川國男が設計した五輪塔の墓には「前川家」とあり、右側面に墓誌が刻む。