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前川國男(1908~1986)

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前川 國男(まえかわ くにお)

建築家
1908年(明治35年)~1986年(昭和61年)


1908年(明治35年)、新潟県新潟市中央区に生まれる。その後、東京に移り住み、真砂小学校(現在の文京区立本郷小学校)、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1925年 (大正14年) に東京帝国大学工学部建築学科へ入学。在籍中には、岸田日出刀がヨーロッパから持ち帰ったル・コルビュジエの4冊の本に影響され、渡欧留学するきっかけとなった。1928年(昭和3年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同時にパリへ赴き、ル・コルビュジエのセーヴル通りの事務所に入所。ル・コルビュジエに師事し、西洋の合理主義建築を学びながら、近代建築の持つ倫理観に影響を受ける。シャルロット・ペリアン、アルフレッド・ロート、ホセ・ルイ・セルトと親交を結ぶ。1930年 (昭和5年)、前年渡仏した坂倉準三と入れ代わるように帰国。東京レーモンド建築事務所に入所した。1931年 (昭和6年) 、東京帝室博物館公開コンペに落選覚悟の計画案を提出。これが建築家としての実質的デビューとなった。1932年 (昭和7年) 、実作第一号の木村産業研究所(弘前市)が落成。1935年 (昭和10年)、銀座商館ビルに事務所を開設し独立。真正の近代建築を根付かせるという使命を自らに課すことから出発した前川は、近代建築を最初に生み出した西ヨーロッパからみれば前近代的であった日本に、当時の先進地域と同水準の技術的な土台、経済的下部構造または生産の社会的諸条件を備えるべきであり、もしそれが先行あるいは並行して実現されなければ、日本の近代建築は見せかけだけの偽物にとどまるしかないであろうと考え、フラット・ルーフを基調とした軽快な作風で日本近代建築運動を推し進めた。しかし、1945年 (昭和20年)に銀座の事務所が空襲で焼失。目黒の自邸に事務所機能を移転する。戦後は「プレモス」と名付けた木造のプレハブ住宅を開発し、被災住宅の復興に力を注ぐ一方、紀伊国屋書店(1947年)、日本相互銀行本店(1952年)などの建築で注目をあつめた。1949年(昭和24年)、新製作派協会建築部に参加。1951年 (昭和26年)、 CIAM(シアム・近代建築国際会議)第8回大会に丹下健三と吉阪隆正を連れて日本代表として参加。ここでル・コルビュジエと再会する。1954年 (昭和29年)、MIDビルが四谷に完成。自邸から事務所を移転する。1953年(昭和28年)日本相互銀行本店、1955年(昭和30年)神奈川県立音楽堂・図書館、1956年(昭和31年)国際文化会館で日本建築学会賞作品賞を受賞。1956年 (昭和31年)、日本建築家協会理事に選出。1959年 (昭和34年)、日本建築家協会の会長に就任。1961年(昭和36年)、京都会館で日本建築学会賞作品賞を受賞。1962年(昭和37年)、東京文化会館で日本建築学会賞作品賞と朝日賞を受賞。1963年(昭和38年)、オーギュスト・ペレ賞を受賞。同年、英国建築家協会名誉会員に選出される。1965年(昭和40年)、UIA (国際建築家連合)の副議長に就任。1966年(昭和41年)、蛇の目ミシン本社で日本建築学会賞作品賞を受賞。1966年(昭和41年)、東京海上ビルディングの建て替え設計を担当。それまで丸の内周辺では、戦前の美観地区規制および、建築基準法の規制により100尺(約31m)の高さ制限ぎりぎりのビルが整然と立ち並ぶ景観が造られていたが、1961年(昭和36年)の31メートル高さ制限撤廃と容積制への移行をふまえ、東京海上火災保険が東京都へ提出した前川の当初案の建築確認申請書では30階建て・高さ127.768メートルとなる高層ビルのツインタワーが建つことになっていた。東京都がこの建築申請を1967年(昭和42年)4月15日付で却下したことをきっかけに、皇居の周囲の美観地区指定を巡る論争や、皇居の周りに皇居を見下ろすようなビルを建てることの是非をめぐり対立が起こった。同社は6月5日付で東京都建築審査会に不服を申し立て、9月26日、建築確認申請を却下した同年4月15日付処分を取り消しとする採決がされ、一旦は勝利したが、最終的にはツインタワーから1つだけのビルにした上、当初の30階建てを25階建て・高さ99.7メートルに変更する計画変更申請を1970年(昭和45年)9月11日付で東京都を通して建設大臣宛に提出。同年9月24日建設大臣がこれを認定したことで東京都との争いを決着した。1967年(昭和42年)、フィンランド国勲章を受章。1968年 (昭和43年)、近代建築の発展への貢献が認められ、第1回日本建築学会賞大賞を受賞。受賞者のメッセージとして「もうだまっていられない」を発表し、建築家と建築界における精神の自由と連帯意識の欠如を批判する。以降、前川は産業社会とそれを支える合理主義のいくつかの側面にきわめて批判的になったが、近代運動の理想の最良の部分を最後まで放棄しなかった。1972年(昭和47年)、埼玉県立博物館で毎日芸術賞、1974年(昭和49年)には同作で日本芸術院賞を受賞。1975年(昭和50年)、株式会社前川建築設計事務所を設立。1979年(昭和54年)、レジオン・ドヌール勲章を受章。1984年 (昭和59年)、日本建築家協会の名誉会員に選出。1985年(昭和60年)、東京都文化賞を受賞。1986年 (昭和61年)6月26日、死去。享年81。


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戦前・戦後と近代建築に大きな足跡を残した建築家・前川國男。50年に及ぶ建築人生の中で200を超える作品を残し、また丹下健三や木村俊彦といった後進も育てながら、日本の建築界をリードし続けた。その一方、建築学会大賞を受賞した際に「もう黙っていられない。今こそ自由な立場にある建築家が奮起すべき時である」と説いたり、質の低下を招く建築界に対して「見せかけの進歩」「倫理教育の欠けた『建築家』の濫造」などと批判したり、国からの勲一等授与を「人間に階級を付けるとは何事か」と拒否したりと気骨の人でもあった。生涯を通じて「人間を幸福にする建築」を追求し、「一本のくぎや一握りのセメントを用いるにも、国家を、そして農村を思わねばならない」と説いた前川國男の墓は、東京都渋谷区の仙寿院にある。自ら設計した五輪塔の墓には「前川家」とあり、右側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-06-02 11:39 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)