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内田百閒(1899~1971)

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内田 百閒(うちだ ひゃっけん)

作家
1899年(明治22年)~1971年(昭和46年)


1899年(明治22年)、岡山県岡山市(現在の中区)古京町に生まれる。本名は、内田 榮造。環翠小学校(現在の岡山市立旭東小学校)、岡山市岡山高等小学校(現在の岡山市立内山下小学校)、岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)を経て第六高等学校(現在の岡山大学)に入学するが、1905年(明治38年)に父が死去。実家の酒屋「志保屋」が倒産し、経済的に困窮する。旧制第六高等学校入学時にも、生徒は原則的に全員入寮が義務づけられているのに、内田家では寮に入る金が捻出できず、学校当局の特別許可をもらって自宅から通学していたほどだった。一方、岡山中学時代は夏目漱石に私淑し、雪隠、流石の筆名で『文章世界』などに投稿。旧制六高時代には志田素琴に俳句を学び、『校友会会誌』に百間の号で発表した。「百閒」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもの。1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学に入学。文学科独逸文学を専攻した。1911年(明治44年)、療養中の夏目漱石を見舞い門弟となる。以後門下生として著作の校正などを手伝う。また、他の門下生である小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平らとの交友が始まり、特に漱石山房では後輩の芥川龍之介から慕われ親交を深めた。1914年(大正3年)、東京帝国大学独文科を卒業。1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官され、1918年(大正7年)には同校英語学教官であった芥川の推薦によって海軍機関学校ドイツ語学兼務教官を嘱託された。1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。持ち前のいたずらっ気やユーモアから法政大学の教え子達から大変慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に摩阿陀会(まあだかい)という誕生パーティーが開かれた。摩阿陀会の由来は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。黒澤明監督による映画「まあだだよ」はこの時期を映画化したもの。なお、この摩阿陀会に対する返礼として、百閒は自腹で御慶の会を正月三日に同じ会場(東京ステーションホテルがその主な会場となった)で催した。1921年(大正10年)、漱石の『夢十夜』を継承発展させた短編小説「冥途」等を「新小説」に発表し、文壇デビューを果たす。存在の不安感を夢や幻想に託したその手法が高く評価された。1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授を命ぜられる。しかし、関東大震災に罹災し、機関学校も崩壊焼失したため嘱託教官を解任させられる。その後、陸軍士官学校教授も辞任したが、1929年(昭和4年)に中野勝義の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任。航空部長としては、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画し、実現させた。また、1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』を刊行。独特のユーモアと風刺にとむ作風は多くの読者を獲得し、重版数十を重ねるベストセラーとなった。1934年(昭和9年)、「法政騒動」で森田草平や関口存男らの反陣営に追い出され法政大教授を辞職。以後は文筆業に専念し、ユーモアと俳味に富む唯美主義的な作品を多く発表した。1945年(昭和20年)、東京大空襲により東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)の居宅が焼失。隣接する松木男爵邸内の掘立小屋に移住し、後年この頃の日記を『東京焼盡(東京焼尽)』として発表した。1950年(昭和25年)、大阪へ一泊二日旅行。これをもとに小説『特別阿房列車』を執筆。鉄道に関しては「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」というほど愛しており、以後『阿房列車』はシリーズ化されて1955年(昭和30年)まで続き、百閒の戦後の代表作となる。1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』を発表し、これもまた代表作となった。その後に居ついたクルツも溺愛したが病死してしまい、その悲しみを綴った『クルやお前か』を発表した。1959年(昭和34年)、小説新潮に『百鬼園随筆』の連載を開始。1967年(昭和42年)、芸術院会員に推薦されるが辞退。当時院長であった高橋誠一郎氏の元へ託したメモ「イヤダカラ、イヤダ 」という辞退の弁は有名となった。1970年(昭和45年)、百鬼園随筆である「猫が口を利いた」を発表。しかし、老衰が激しく以降の作品が書けず、これが絶筆となった。1971年(昭和46年)4月20日午後5時20分、東京・麹町の自宅で老衰のため死去。享年81。


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風刺とユーモアに富む独特な作風で読者を魅了した内田百閒。わがままで偏屈な性格、そして嗜好におけるこだわりの強さは、元祖オタクといって過言ではないかもしれない。そんな気難しい面がある一方で、いたずらっ気とユーモアにもあふれており、大学時代の教え子たちとの交流を様々なエピソードとともにコミカルに描いた黒澤明監督の遺作『まあだだよ』で描かれたように、内田百閒を慕う人は実に多かった。夢幻と滑稽さを文学に追い求めた「百鬼園」こと内田百閒の墓は、岡山県岡山市の安住院と東京都中野区の金剛寺にある。生前「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、郷里の岡山に帰ろうとはしなかった百閒だが、遺言として岡山にある先祖代々の墓と3回忌の折りに「摩阿陀会」によって建てられた東京の墓に分けられた。東京の墓には「内田榮造之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。また、右側には「木蓮や 塀の外吹く 俄風」の句碑が建つ。戒名は「覚絃院殿随翁栄道居士」。


by oku-taka | 2019-05-30 22:50 | 文学者 | Comments(0)