2019年 05月 26日
山野愛子(1909~1995)

山野 愛子(やまの あいこ)
美容研究家
1909年(明治42年)~1995年(平成7年)
1909年(明治42年)、東京市京橋区築地(現在の東京都中央区)に生まれる。実家は東京・向島で洋食食堂を経営していたが、父親は愛人のもとに入りびたっており、母親はことあるごとに「これからは女も自立する時代」と説いていた。1923年(大正12年)、関東大震災で被災。女性被災者のみすぼらしい姿をみて、美容の大切さを痛感する。小学校を卒業後、上野に出来たばかりの志田美容学校に入学。1925年(大正14年)、向島に御結髪「松の家」を開業。花街の芸者やお女郎を相手に持ち前の腕と巧みな話術でお客を集め、髪結いとしての実績を築き上げた。1927年(昭和2年)、店舗改装に伴い「美容の殿堂・山野美粧院」と改称。モダンな建物と派手な看板で話題となる。1932年(昭和7年)、日本橋にあった白木屋百貨店の火災による惨事を機に洋装が普及し、洋髪を専門にする美容院が台頭。愛子はアイロンごてを使って仕上げるマーセルウエーブに注目し、マーセルウエーブの技術を習得した。1934年(昭和9年)、東京・中野に山野美容講習所を開設。徒弟制度だった美容界において惜しげもなく自分の持っている技術を広め、普及させた。1935年(昭和10年)、子供が欲しくなったことから、前年に知り合った逓信省(現在の日本郵政株式会社)勤務で琵琶教授を務めていた山野治一と結婚。父の影響で男を信じていなかった愛子は、200円の結納金を出し、10年の契約結婚、子供が一人生まれるごとに店を1店舗作る、といった契約を前提とした。以降10年ごとに契約を更新し、終生連れ添った。1936年(昭和11年)、アメリカで開発されたパーマネントが日本に上陸。逓信省を辞めた治一は、自分の退職金と質屋からの借金で愛子にパーマの機械をプレゼント。さらに、治一は第三種電気主任技術者の資格を取得し、中古のパーマ機を分解してその構造を調べ、国産パーマ機1号『ヤマノスター号』を開発。日本初のパーマ指導技術者として、それまで洋髪の手法を知らなかった髪結いたちにパーマ機を売り、合わせてその技術も教えることを始めた。その後、パーマに必要なソリューション液の製造販売も手掛け、日本にパーマ技術を普及させた。しかし、戦時下になると、電髪と呼ぶよう強制されたパーマは禁止となり、パーマ機も軍に供出せざるを得なくなる。1947年(昭和22年)、国際美容クラブ(後の国際美容協会)を設立。1949年(昭和24年)、山野高等美容学校(現在の山野美容専門学校)を創立。学校教育を通じての美容師の養成と社会的向上につとめる。1950年(昭和25)、夫と渡米し、マリネロ美容学校、リノー美容大学高等研究科で学ぶ。1951年(昭和26年)、雑誌『ビューティーブック』を創刊。職業婦人のための美容雑誌として愛子自らが監修を務めた。1954年(昭和29年)、日本美容師総連合会会長に就任。日本の伝統文化に根ざした美容を基礎にして、欧米の美容との接点を追究した。1957年(昭和32年)、米欧15カ国の美容行脚を行い、いち早く世界の美容情報を入手するとともに、着物をはじめ日本の伝統文化を紹介する活動を展開した。同年、徒弟制度のもとにあった美容教育を改革し、美容師の社会的地位を向上させるため、美容師法の制定を実現させた。1961年(昭和36年)、ロサンゼルスにヤマノ・ビューティカレッジを開設し校長に就任。以降、化粧品や美容器具の販売まで多角的な経営を成功させ、「山野美容帝国」を築き上げた。また、ピンを使わず簡単に巻ける「アイコーカーラー」の販売や、結婚式においてドレスから和装へのお色直しを10分弱で実現させた「クイックチェンジ方式」など斬新なアイデアを次々に発表した。1967年(昭和42年)、藍綬褒章を受章。1977年(昭和52年)、8月3日を「ハサミの日」とすることを提唱。以後毎年8月3日に東京・増上寺で「ハサミ供養」が行われている。1980年(昭和55年)、女性で初めての勲三等瑞宝章を受章。1984年(昭和59年)、2代目として山野愛子ジェーンに継がせる。1992年(平成4年)、山野美容芸術短期大学を設立し、初代学長に就任。1995年(平成7年)7月31日、死去。享年86。


70年間にわたり美容師の育成と社会的地位の向上に貢献した美容界のパイオニア・山野愛子。戦前は独自でパーマネント機を開発し、日本全国にパーマネントを普及。戦後は日本最大規模の美容師養成施設「山野美容専門学校」を創設し、現在までに21万人もの人材を輩出している。日本の美容界のカリスマでありながら、ざっくばらんな言動とガハハハと大口開けて笑う飾らない性格は多くの人から愛され、おばさまタレントとしてテレビにも積極的に出演していた。「女性は男性の三歩後ろに下がって歩かなければならない」と言われていた時代に、常に体当たりで新しい女性の時代を切り開いた山野愛子の墓は、東京都中野区の高徳寺にある。洋型の墓には「山野家」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「華徳院釋尼玅愛大姉」。

