人気ブログランキング | 話題のタグを見る

三益愛子(1910~1982)

三益愛子(1910~1982)_f0368298_11300052.jpg

三益 愛子(みます あいこ)

女優
1910年(明治43年)~1982年(昭和57年)


1910年(明治43年)、大阪府大阪市南区南炭屋町(現在の中央区)に生まれる。本名は、川口 愛子(かわぐち・あいこ)。旧姓:乾(いぬい)。1927年(昭和2年)、大阪府立阿倍野高等女学校を中退し、大阪の劇団『新潮劇』に加入。水町晴子の芸名で初舞台を踏んだ。1929年(昭和4年)、上京。1932年(昭和7年)、松竹専属となった榎本健一の劇団『ピエル・ブリヤント』に入り、エノケンの相手役をつとめた。翌年には古川緑波もいた松竹傘下の喜劇集団『笑いの王国』に招かれ、芸名を三益愛子に変えて看板女優となった。1934年(昭和9年)、太秦発声映画で映画。その翌年には東宝に入り、舞台だけでなく映画でもコメディエンヌとして活動した。1936年(昭和11年)、長男の浩を出産。当時は浩の父親である川口松太郎に妻子があったため、1951年(昭和26年)まで入籍しなかった。1942年(昭和17年)、浩の慶応幼稚舎の試験に際して芸能界を引退。家庭に入るものの、松太郎の勧めで1947年(昭和22年)に芸能界に復帰した。同年12月、松太郎が大映の専務取締役(制作担当)に就任すると共に大映に入社。1948年(昭和23年)、映画『山猫令嬢』に女学生の母親役で主演。この役が大ヒットとなり、以降は悲劇の母を演じた「母もの」シリーズに10年間で33本もの主演を続けた。1959年(昭和34年)、大映を退社。活動の場を舞台に移す。1959年(昭和34年)、菊田一夫の舞台『がめつい奴』で主役の「お鹿ばあさん」役を演じて、大ヒットとなる。上演日数270日、上演回数371回のロングラン記録を作った。この演技で芸術祭賞、テアトロン賞を受賞する。1976年(昭和51年)、紫綬褒章を受章。1978年(昭和53年)5月22日、次男の恒が、LSD、大麻、コカインを自宅に隠し持っていたところを捕えられ、暴力団住吉連合の元幹部たちとともに赤坂署に逮捕。6月6日、三男で三浦友和のマネージャーをしていた厚も麻薬取締違反及び大麻取締違反で逮捕。さらには長女の晶もLSDや大麻を所持していた疑いで逮捕されたことから「川口一家の麻薬汚染事件」と呼ばれた。この騒動の直後から体調を崩すようになり、1981年(昭和56年)ラスベガスから帰国後に発熱。病院で検査を受けたところ膵臓癌が判明。5時間の手術が成功し、4月には退院したが、11月に容態が急変。1982年(昭和57年)1月18日、東京女子医大病院で膵臓癌のため死去。享年71。


三益愛子(1910~1982)_f0368298_17035351.jpg

三益愛子(1910~1982)_f0368298_17035299.jpg

戦後の日本映画において、望月優子と並び「母物映画女優」として一世を風靡した三益愛子。母物だけでも33本の主演を務め、大映退社後に出演した東宝映画『娘・妻・母』では、高峰秀子、原節子といった当時のトップスターを抑えての主演で老いた母親を哀愁たっぷりに演じ、その貫禄さを見せつけた。かと思えば、戦前に培ったコメディエンヌっぷりを活かし、コミカルな意地悪婆さんも多く演じた。当たり役ともなった舞台『がめつい奴』、テレビドラマ『正塚の婆さん』はその最たる作品であろう。そんな三益愛子の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には「川口一族」とあり、両側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-05-05 12:11 | 俳優・女優 | Comments(0)