2019年 05月 04日
川口松太郎(1899~1985)

川口 松太郎(かわぐち まつたろう)
作家
1899年(明治32年)~1985年(昭和60年)
1899年(明治32年)、東京市浅草区浅草今戸町(現在の東京都台東区今戸)に生まれる。親は誰だかわからず、戸籍では「島岡春吉姉よね私生児川口竹次郎庶子認知入籍」とされる。小学校卒業後、洋服屋や警察署の給仕として働き、1915年(大正4年)の夏からは栃木県芳賀郡にあった祖母井郵便局に電信技士として勤務する。その傍ら、久保田万太郎に師事。さらには、小山内薫門下の脚本研究会に入る。1916年(大正5年)、『流罪人藤助』で文壇デビューを果たす。1919年(大正8年)、講談師の悟道軒円玉の家に住み込み、口述筆記の手伝いのかたわら、江戸の庶民文学や漢詩文を学ぶ。これが後年、作品を執筆するうえに独自の話術の妙を発揮する下地となった。1923年(大正12年)、帝劇の脚本に応募した『出獄』が当選。同年、小山内薫主宰の『劇と評論』に脚本『足袋』を投稿し、これが認められて大阪のプラトン社に入社。直木三十五と共に働き、『苦楽』の編集に当たる。1926年(大正15年)、プラトン社を退社して帰京。映画の脚本、監督、演出などを手がけながら、「森下与作」といった筆名を使って小説や随筆、戯曲などを執筆。しかし、一向に芽が出なかった。1935年(昭和10年)、『鶴八鶴次郎』が菊池寛に激賞され、翌年には同作と『風流深川唄』『明治一代女』などで第1回直木賞を受賞。その後も『歌吉行燈』『長脇差団十郎』といった芸道物、『新吾十番勝負』の時代物、『祇園囃子』の人情物、『愛染かつら』『夜の蝶』などの現代風俗物と大衆小説を相次いで発表し流行作家となった。特に『愛染かつら』は1938年(昭和13年)に映画化され、田中絹代・上原謙の主演で人気を博した。私生活では、プラトン社の編集者だった頃に大阪新町で知り合った人気舞妓と結婚して娘もいたが、後に離婚し、古川ロッパ劇団の看板女優だった三益愛子と結婚。三益との間に、後に俳優となった川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)を設けた。1938年 (昭和12年)、花柳章太郎らと共に劇団新生新派の主事に就任。脚本執筆や演出にあたり、以後一貫して新派の伝統保存と育成に力を注いだ。同年、永田雅一に請われて大映製作担当専務に就任。1947年(昭和21年)には同取締役となった。1960年(昭和35年)、明治座取締役制作部長に就任。1960年(昭和35年)、劇作家の生活向上を目的として、中野実、北條秀司、菊田一夫らと「劇作家四人の会」を結成。1963年(昭和38年)、新派を育成した功績で菊池寛賞を受賞。1966年(昭和41年)、日本芸術院会員となる。1969年(昭和44年)、『しぐれ茶屋おりく』で吉川英治文学賞を受賞。1973年(昭和48年)、文化功労者に選出。 1978年(昭和53年)5月22日、次男の恒が、LSD、大麻、コカインを自宅に隠し持っていたところを捕えられ、暴力団住吉連合の元幹部たちとともに赤坂署に逮捕。6月6日、三男で三浦友和のマネージャーをしていた厚も麻薬取締違反及び大麻取締違反で逮捕。さらには長女の晶もLSDや大麻を所持していた疑いで逮捕されたことから「川口一家の麻薬汚染事件」と呼ばれた。1982年(昭和57年)、妻・三益愛子を膵臓癌により71歳で先立たれる不幸に見舞われる。妻の死後『愛子いとしや』を上梓して話題となったが、この頃から体調を崩して入退院を繰り返すようになる。三益の死から3年後の1985年(昭和60年)6月9日、肺炎により東京女子医科大学病院にて死去。享年85。没後、勲二等瑞宝章を追贈される。


昭和を代表する流行作家の一人、川口松太郎。戦前に空前の大ブームとなった『愛染かつら』をはじめ多くの作品が映画化・舞台化されており、特に新派においては上演作のほとんどが川口松太郎原作によるものである。そうした人気作家へと上り詰めるまでに、枚挙にいとまがないほどの職歴を重ねた。小学校卒業後、洋服屋や質屋の小僧、古本露天商、警察署給仕、電信局勤務、講釈師の口述筆記手伝いなど、彼の作家人生は流浪の果てに到達したものだった。そうした苦労が故か、子供たちをうんと甘やかして育て、結果的に「川口一家の麻薬汚染事件」を引き起こす事になってしまった。自らを「人情馬鹿」と評した川口松太郎の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には「川口一族」とあり、両側面に墓誌が刻む。

