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芥川隆行(1919~1990)

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芥川 隆行(あくたがわ たかゆき)

ナレーター
1919年(大正8年)~1990年(平成3年)


1919年(大正8年)、東京府東京市芝区(現在の東京都港区白金)に生まれる。幼少の頃、祖母に連れられて浪花節や講談、無声映画の活弁に馴染み、後に聞き手の耳へ分かりやすく伝える発声法につながった。また、子供の頃から足が速く中学・大学では陸上部に所属した。1941年(昭和16年)、慶應義塾大学経済学部を卒業。兵庫県神戸市の川西機械に入社したが、出社したのがふた月だけで退社。神戸の南洋拓殖に入るが、12月に入隊。北支那方面軍に配属され、以降中国戦線を転戦。仕官候補試験に合格して陸軍中尉となり、斎南の補給廠に勤めている時に敗戦を迎えた。1946年(昭和21年)、復員。1948年(昭和23年)、野球選手の芥田武夫と間違えられて大分県の高等学校教員となり、国東高等学校、森高等学校で教鞭を執る。1951年(昭和26年)、ラジオ東京(TBS)のアナウンサー募集に応募。既に32歳だったことから願書も受け付けて貰えなかったが、「役者にも老け役がいるから、アナウンサーにも老け役が必要であろう」という審査員の鶴の一声で受験することができ、10月にラジオ東京のアナウンサー第1期生として入社。主にスポーツ番組、ラジオドラマの語り手、芸能番組を担当した。その間、編成局アナウンス課、編成局アナウンス部と異動し、1955年(昭和30年)ラジオドラマ『新撰組始末記』の語り手に抜擢。後に「芥川節」と呼ばれる名調子で評判となったが、型破りなアナウンサーぶりが問題となり、編成局テレビ演出部映画課兼アナウンス部に配置転換。その後、テレビ編成局演出部兼アナウンス部、テレビ編成局編成部兼アナウンス部とそれぞれ在籍し、1959年(昭和34年)に退社。芥川企画を立ち上げ、民放第1号のフリーアナウンサーに転身した。1961年(昭和36年)、『新選組始末記』のテレビドラマ化に際し、再びナレーターに抜擢。芥川は原作者の子母沢寛を訪ねて語り台本を自ら書く許可を得て、語り手としてドラマを盛り上げた。同番組はドラマの画面に語りを入れる番組作りの嚆矢ともなり、番組の最後のほうで三橋美智也による主題歌をバックにしてのナレーションは当時の視聴者に強烈な印象を与え、芥川の出世作となった。以来、ナレーションの第一人者として、TBS『ナショナル劇場』、や『ザ・ガードマン』、『キイハンター』、『木枯し紋次郎』、『西遊記』、『Gメン'75』、『必殺シリーズ』、『スクール☆ウォーズ』、『ポニーテールはふり向かない』、『乳姉妹』、『三匹が斬る』など数々の人気時代劇・ドラマを手がけた。中でもTBS系土曜21時台の歴代ドラマでは、多数の作品で芥川隆行がナレーターを務めた。黄桜のCMでも『河童の歌』を使用していた時代にはナレーションも長期に亘り務めていた。 また、TBS紀行番組『兼高かおる世界の旅』では、ナレーションではなく、旅行家の兼高かおるの旅の様子の聞き手を務め、30年に亘る長寿番組となった。1970年(昭和45年)、大川栄策が恩師古賀政男の曲を歌ったカヴァーアルバム『大川栄策 古賀メロディーを歌う』で語り部として起用され、これが日本初のナレーション入りアルバムとなった。1971年(昭和46年)、文化放送朝の生ワイド番組『オハヨー! 日本列島』の司会を務め、番組終了後は『お元気ですか 芥川隆行です』を担当した。1974年(昭和49年)にはラジオ日本で演歌専門番組『芥川隆行の演歌だヨ!』がスタート。イントロに独特の語りをいれる「ナレーション演歌」は番組の名物となり、亡くなるまで16年間続く人気番組に育て上げた。1980年代終わりからはラジオ日本に朝から晩まで番組・コーナーを数多く持ち、ラジオ日本の顔となった。1988年(昭和63年)、仕事の集大成である『名調子芥川隆行が語る名作シリーズ・カセットブック(全15巻)』を出版。1990年(平成2年)7月31日、うだるような暑い日にもかかわらず、ジャンパーを着込んでラジオ日本に出社し『芥川隆行の演歌だヨ!』の生放送を担当。終了後に体調不良を訴え入院。最初は芥川に知られないよう急性肺炎と診断されたが、8月1日の精密検査の結果、放射能治療も手術も不可能な肺癌と判明。親族にだけ知らされた。その後、医師の許可をもらって病院を抜け出し、レギュラー番組の収録に参加。8月20日には『スクール☆ウォーズ2』の3-4話のナレーション収録を行ったが、それが遺作となった。9月、芥川から『ナショナル劇場』の降板を申し出を受けて、ナレーションはTBSアナウンサー2年後輩の杉山真太郎が務めた。9月4日、『兼高かおる世界の旅』最終回のナレーション収録に臨み、胸を押さえながら必死で挑んだが声が響いておらず、「芥川節」は本調子ではなかった。10月2日、肺癌のため死去。享年71。没後、入院中に書き下ろした『兼高かおる世界の旅』の思い出を振り返った「一つの旅の終焉」というタイトルの絶筆が雑誌『鳩よ!』に掲載された。


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日本におけるナレーターの草分け的存在で、めりはりのきいた渋い語り口でお茶の間に愛された芥川隆行。低音ボイスで淡々と語るその声は「芥川節」と呼ばれ、1970年代は「名ドラマにこの声あり」とも言うべき存在となっていた。特にドラマ黄金期のTBSを支えた功労者でもあり、『水戸黄門』をはじめとするナショナル劇場枠の時代劇は芥川の声で持っていた一面もあった。あの名調子が聞けなくなって早30年あまり、芥川隆行の墓は東京都港区の立行寺にある。墓には「芥川家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「信融院?境日隆居士」

by oku-taka | 2019-04-30 23:48 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)