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瀬島龍三(1911~2007)

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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)

陸軍軍人・実業家
1911年(明治44年)~2007年(平成19年)


1911年(明治44年)、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)に生まれる。 旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年(昭和7年)に陸軍士官学校第44期を次席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受。富山歩兵第35連隊で陸軍歩兵少尉に任官。1938年(昭和13年)、陸軍大学校第51期を首席で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。1939年(昭和14年)、関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二陸軍中将)参謀、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。1940年(昭和15年)、大本営陸軍部作戦課に配属。関東軍参謀時代には対ソ示威演習である関東軍特種演習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。1941年(昭和16年)7月、大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。同年12月8日、太平洋戦争が開戦。この時の日本軍の開戦日の暗号は瀬島考案の「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」であった。開戦以降は陸軍の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導。主任として担当したものを含め、主なものは南方作戦におけるマレー作戦(E作戦)・フィリピン作戦(M作戦)や、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦などであった。瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州の陸軍基地で勤務した。1944年(昭和19年)、単独でモスクワに2週間出張。1945年(昭和20年)1月、島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死。その後任に瀬島が選ばれる。2月25日、海軍の連合艦隊参謀兼務となり、最終階級は陸軍中佐となった。その後、同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備のため日本各地を調査。特に高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦局の実情を訴えたという。7月1日、関東軍作戦参謀に任命され、満州へ赴任。8月15日の日本降伏後の8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。日本側の参加者は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第一極東方面軍司令官キリル・メレツコフ元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。このとき瀬島は軍使として同地を訪れたため、内地に帰還することは可能であったが、9月5日、関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。この交渉の際、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)らにより主張された。後年、瀬島は著書『幾山河』で「『密約説』を唱える人たちは、明確な根拠を示して欲しい」と述べている。また、瀬島は停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかったと反論している。また、ロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も全く発見されてはいない。2002年(平成14年)には政治学者田久保忠衛がモスクワのロシア国立社会政治史文書館で「国家防衛委員会決議No.9898CC「日本人捕虜五十万人の受入、収容、労働利用に関する決議」(1945年8月23日付)を確認し、このスターリンが自ら署名した文書に「労働のためにやって来る捕虜の受入、収容、労働利用の実施を行うよう次の人民委員に命ずる」と強制労働命令について明記してあり、この文書によって極東ソ連軍の権限でなくソ連中央政府からの命令であったことが判明しており、密約説は否定された。ソ連との交渉締結後は、ソ連のシベリアへ11年間抑留。このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。瀬島は高橋ブリガードに配属されたが、特別の技術もなく何回か肺炎を患って体が衰弱していたので、外での労働は無理と判断され、班長の高橋重隆の配慮で左官の仕事が宛がわれた。1946年(昭和21年)、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)・松村知勝陸軍少将(総参謀副長)とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。さらにソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出したが、瀬島はこれも断った。ソ連は家族の所在を突き止め強制的に面会を強要した。裁判後は再びシベリアに戻され、1950年代後半に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされることもあった。1956年(昭和31年)、シベリア抑留から帰還。設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念。瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年(昭和33年)に伊藤忠商事に入社する。入社前に瀬島は入社面接を拒否し、その代わりに手紙を送付。面接を拒否した理由は「そこまで落ちぶれたくないというプライドだった」と後に語っている。契約内容は嘱託採用、給与は係長待遇、契約は毎年更新という内容だったが、妻の清子はこれを喜び、採用通知書を神棚に飾った。入社時の伊藤忠商事の社長は小菅宇一郎だったが、ある日小菅に呼び出された瀬島は「この会社には商売をする者は腐る程います。だから瀬島さんは商売はしなくていい。この先、日本も世界も大きく変わってゆく中で、あなたには商社としてどう進んでいけばいいのか?そういう観点から助言や補佐をしてもらいたい」と伝えられた。元軍人でビジネス用語に不慣れだった瀬島は「こりゃ金利を覚えないでいいな」との笑い話を残している。1960年(昭和35年)、伊藤忠商事航空機部長に就任。入社3年目の1961年(昭和36年)には業務本部長に抜擢され、1962年(昭和37年)に取締役業務本部長、半年後に常務となる。同年、領空侵犯機をいち早く見分ける半自動警戒管制システム「バッジ・システム」の受注をめぐり米ヒューズ=伊藤忠、米GE=三井物産、米リットン=日商の3組が争った。当初はGE=物産連合が優勢で、ヒューズ=伊藤忠の勝ち目はなかったが、陣頭指揮の瀬島は部下を防衛庁の情報収集に走らせ、内局や空幕の幹部に深く喰い込み、価格情報を探ると、思い切り値段を下げて応札。応札額はGE=207億円、リットン=170億円、ヒューズ=130億円で、その安さが決め手になり、ヒューズ=伊藤忠連合に決まった。1967年(昭和42年)には、6月に勃発した第3次中東戦争を「イスラエルが勝つ」「戦争は1週間で終わる」「スエズ運河は閉鎖される」と明言。戦争はイスラエルが勝利して6日間で終わり、この予測で伊藤忠に莫大の利益をもたらした。こうした分析の的中率の高さから、業務本部はマスコミに「瀬島機関」と称された。その後も同社がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年(昭和43年)に専務、1972年(昭和47年)副社長、1977年(昭和52年)副会長と昇進し、1978年(昭和53年)には会長に就任した。この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆に協力し、1971年(昭和46年)には第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だった田中角栄と知り合う。後に源田実に紹介されて児玉誉士夫とも交友を結ぶ。1972年(昭和47年)、ハーバード大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「一九三〇年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の回顧」という講演を行った。実権のない伊藤忠会長だった1978年(昭和53年)、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢される。瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後財界活動を活発に行うようになり、永野の参謀として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。1981年(昭和56年)、伊藤忠商事の相談役に就任。同年、永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫、田中角栄らの推薦と、永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く。土光敏夫会長のもとで参謀役として働き「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権のブレーンとして政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉(クォン・イクヒョン、권익현)を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇との会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。1984年(昭和59年)、勲一等瑞宝章を受章。1987年(昭和62年)、伊藤忠商事の特別顧問に就任。他にも、亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年(平成12年)、伊藤忠商事特別顧問を退任。2007年(平成19年)、同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱はとても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」と発言。5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構をつくり、関係産業各社と電力会社の協力を推進すること、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)、ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を、山本卓眞(富士通名誉会長)、山口信夫(旭化成会長)、下山敏郎(オリンパス最高顧問)、小長啓一(前アラビア石油会長)、中條高徳(アサヒビール特別顧問)、野地二見(元産経新聞取締役)、秋山智英(元林野庁長官)、鈴木正次(元日本弁理士協会会長)、南崎邦夫(石川島播磨重工副社長)、小野寺俊一(元港湾協会会長)、小野重典(フジタ最高顧問)、植之原道行(元NEC副社長)、岸国平(農業研究センター所長)らと連名で提出した。9月4日午前0時55分、老衰のため東京都調布市の私邸において死去。享年95。没後、従三位が贈られた。


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昭和の参謀と呼ばれ、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルとなった瀬島龍三。軍人としては、大本営作戦参謀として国軍の作戦計画の中枢で活躍。実業家としては、繊維商社だった伊藤忠商事の会長に就き、世界規模の総合商社に発展させた。また、中曽根元首相のブレーンとして政財界に大きな影響力を持ち、影のキーマンとして国家改革に影響力を発揮した。そうした輝かしい経歴の反面、瀬島が緻密に練り上げた「南方作戦」によって太平洋戦争が起こり、太平洋戦争末期に「台湾沖航空戦は誤報である」という情報部・堀英三少佐の指摘電報を握りつぶして悲惨なレイテ沖海戦を招くなど、国家を揺るがす史上最悪の決断を多く実行していることも忘れてはならない。特に韓国へ5億ドルの戦争賠償金を支払う代わりに伊藤忠が火力発電等の大型プロジェクトの受注を次々に獲得していった「賠償ビジネス」の確立は、後の日韓問題の原因を生む一因になったように思えてならない。「昭和の参謀」は日本国発展の功労者だったのか、それとも国賊なのか。評価が分かれる瀬島龍三の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。墓は「瀬島家之墓」と「南無阿彌陀佛」と彫られた2基あり、右横に墓誌が建つ。戒名は「顯正院釋龍照」。

Commented by 真偽が知りたい at 2019-10-30 17:09 x
こういう売国奴が日本の中枢には何人も居たんだろうな。
いったいこういう奴らによって日本人何人死んだんだろか。
こいつらには本当にゾッとするな。


by oku-taka | 2019-04-30 22:21 | 経済・技術者 | Comments(1)