2019年 04月 29日
佐藤栄作(1901~1975)
佐藤 栄作(さとう えいさく)
政治家
1901年(明治34年)~1975年(昭和50年)
1901年(明治34年)、現在の山口県熊毛郡田布施町に生まれる。父は山口県庁に奉職したが、後に勤めを辞めて酒造業を始めた。1907年(明治40年)、小学校に入学。この頃、小鳥を追ったり、鰻とりをしたり、夏は家の側の小川で真っ黒になって泳くなど自然児として過ごす。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部法律学科に入学。大学時代は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。1923年(大正14年)、高等文官試験(行政)に合格。兄の岸信介からは、同じ農商務省への入省を勧められたが、特に役人を志望していたわけではなく、当時満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたので採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。そこで、浅野セメント(現在の太平洋セメント)への就職が決まりかかっていたが、高文にも合格していたため、鉄道省にも願書を出した。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された。1924年(大正13年)、東京帝国大学法学部法律学科を卒業して鉄道省に入省。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。1926年(大正15年)、佐藤家本家当主の叔父・佐藤松介の遺児で、かねてからの許嫁であった従妹の寛子と結婚し、佐藤家本家の婿養子となった。1934年(昭和9年)、在外研究員として2年間の海外留学に赴く。1年目は米国、2年目は欧州に滞在した。研究題目は「欧米における運輸について」。ニューヨークとロンドンを拠点にしながら、米国各地の他、カナダ、メキシコ、英国、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広く視察した。1940年(昭和15年)、鉄道省監督局の総務課長に就任。翌年には監督局長となり、全国の鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るため陸上交通事業調整法の立法・運用に腐心。当時、早川徳次と五島慶太により東京地下鉄道(現.東京地下鉄)経営権争奪戦が展開されていたが、政府は1941年(昭和16年)に同法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)を成立させ、これを調停した。このとき、栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」との主張からこれを主導した。1944年(昭和19年)、大阪鉄道局長に就任。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍高官と対立したためとする説がある。1947年(昭和22年)、運輸次官に就任。同年、社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年(昭和23年)、退官し、民主自由党に入党した。遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、第2次吉田内閣では非議員ながら内閣官房長官として入閣。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となる。1949年(昭和24年)、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。1951年(昭和26年)、第3次吉田内閣第2次改造内閣で郵政大臣兼電気通信大臣に就任。12月の第3次吉田内閣第3次改造内閣でも留任した。1952年(昭和27年)、第4次吉田内閣で建設大臣兼国務大臣北海道開発庁長官に就任。1953年(昭和28年)、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任。1954年(昭和29年) 、造船疑獄が発覚して逮捕請求される。その際、法務大臣・犬養健に検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養が動かなかったことから、吉田に犬養を罷免させ新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた。その後、幹事長を辞任し、党総務に就く。1955年(昭和30年)、保守合同による自由民主党結成に不参加。自民党参加を拒否した吉田、橋本登美三郎とともに無所属となる。1956年(昭和31年)、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連恩赦」で免訴となる。1957年(昭和32年)、鳩山一郎引退後に自由民主党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任。政務調査会長・三木武夫と共に岸政権を支えた。1958年(昭和33年)、第2次岸内閣で大蔵大臣に就任。この頃、共産主義と戦うため、日本共産党、日本労働組合総評議会の高野実派、日本教職員組合などに対抗し、実業界、財界トップからなる非政府グループを設立するなどしたが、資金面で非常に難しいとダグラス・マッカーサー2世大使と協議を交し、東京グランドホテルでS.S. カーペンター大使館一等書記官にアメリカからの財政援助を願い出て、資金工作の受取人としては当時自民党幹事長だった川島正次郎を挙げている。1961年(昭和36年)、第2次池田内閣第1次改造内閣で通商産業大臣に就任。しかし、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった。1963年(昭和38年)、第2次池田内閣第3次改造内閣で北海道開発庁長官、科学技術庁長官に就任。1964年(昭和39年)、池田勇人の3選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月9日、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した。第1次佐藤内閣は、池田前首相の退陣の事情を考慮して前内閣の閣僚をそのまま再任することを決めたが、その中で鈴木善幸内閣官房長官のみ池田に殉ずる形で再任を固辞したため、鈴木に代わり佐藤派の橋本登美三郎が官房長官に起用された以外は居抜き内閣の形で発足した。同年10月16日、中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、1965年(昭和40年)1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じた。13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えた。 8月19日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後に暴露された(日米核持ち込み問題)。このほか首相在任中は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定等を行なった。 一方、自民党を中心に相次いで不祥事が発覚し、一連の事件で自民党への国民の信頼は失墜。永田町を「黒い霧」が覆っていると批判されるようになった(黒い霧事件)。1967年(昭和42年)2月、第2次佐藤内閣が発足。第1次佐藤内閣の発足からさほど時間が経っていないことや、同年1月29日に実施された第31回衆議院議員総選挙で党公認候補の落選者がほとんど出なかったことなどから、新たな人選もほとんどなく、閣僚は全員が再任された。12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。その後も、野党、マスメディアから「官僚政治」「対米依存」と非難されつつも、単独与党、絶対多数の政局安定を持続。「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続けた。この背景には、好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌。就任直後の証券不況を乗り越えて以降は空前の好景気となった(いざなぎ景気)。一方で、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮澤喜一、竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術で政権の求心力を維持し続けた。また、情報収集能力が高く「早耳の佐藤」と呼ばれた。また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といった、その後の自民党を特徴づけるシステムを確立。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案等による野党懐柔がこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で参議院自民党の実力者であった重宗雄三と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄や園田直らに強行採決を自ら指示することもあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭するなど、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。1970年(昭和45年)、自民党総裁4選について、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつけること」を大義名分に、三木武夫を破り自民党総裁4選を果たした。しかし、4選以降は佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化した。また、ニクソン・ショックや沖縄密約事件が相次いだことや、日米繊維交渉の拗れ、統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し、また通産相として長年の懸案であった日米繊維交渉を強引にまとめ上げるなどして急速に台頭。総裁公選も田中が宿敵の福田を破って勝利した。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、1972年(昭和47年)7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として、7年8ヶ月に亘る長期政権を終えた。6月17日の退陣表明記者会見の冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね?テレビカメラ…。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」と抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、これに岸井成格が新聞記者達に呼びかけ、「じゃあ出ましょうか!出よう出よう!」と記者全員が退席。がらんとした会見場で、佐藤はひとりテレビカメラに向かって演説した。竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという。その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を「…ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていた」と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を「一人でしゃべっていた」などと書くのは前代未聞の出来事だった。退陣後の11月3日、大勲位菊花大綬章を受章。1974年(昭和49年)、非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞。賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力する等世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定された。1975年(昭和50年)5月19日、築地の料亭「新喜楽」で政財界人らとの宴席での最中にトイレに行こうとして立ち上がったところで崩れるように横倒しとなり、すぐいびきをかき始めた。現在の日本では、直ちに救急車を呼び病院に運ぶのが常識だが、当時は逆ですぐ駆け付けた慶應義塾大学や東京大学の医師団や家族も誰も病院に運ぼうとしなかったという。倒れた原因は脳溢血。寛子夫人の強い意向で4日間「新喜楽」で容態を見た後、東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後、6月3日午前0時55分に死去。享年74。6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行われ、従一位・菊花章頸飾を追叙された。
7年8か月に及ぶ長期政権を率いた第61代内閣総理大臣・佐藤栄作。「政界の団十郎」「早耳の栄作」の異名を持ち、非核三原則を提唱して日本人初のノーベル平和賞を受賞した。総理大臣としては、東京オリンピックと並ぶ戦後復興の象徴・大阪万国博覧会を成功に導き、このほか日韓基本条約の批准、小笠原諸島・沖縄の返還を実現させた。こうした功績から、石原慎太郎は戦後最強の内閣に佐藤内閣を挙げている。しかし、造船疑獄を揉み消そうとしたり、非核三原則を打ち出しながらもアメリカと核持ち込みの密約を結び、しれっとノーベル平和賞を受け取る。「待ちの政治」なんて呼ばれたが、裏でやることはやっている狡い政治家だった。そんな佐藤栄作の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所と郷里の山口県田布施町にある。前者の墓は「南無阿彌陀佛」とあり、一段下に「佐藤栄作墓」と彫られている。墓誌は右側面に刻まれ、左側には略歴を記した碑が建つ。戒名は「作願院釋和栄」。