2019年 04月 28日
八代目・桂文楽(1892~1971)
八代目・桂文楽(かつら ぶんらく)
落語家
1892年(明治25年)~1971年(昭和46年)
1892年(明治25年)、青森県五所川原町に生まれる。本名は、並河 益義(なみかわ ますよし)。父は税務署長として各地に赴任しており、1894年(明治27年)に父の転任に際し東京に移住する。1899年(明治32年)、根岸尋常小学校に入学。しかし、1901年(明治34年)に父が任地の台湾で病死。1902年(明治35年)には家計が苦しくなり、小学校を3年で中退。横浜のハッカ問屋に奉公に出されるが、夜遊びが過ぎて1906年(明治39年)に東京へ戻り、職を転々とするがどれも物にならなかった。その後、横浜に舞い戻って証券のノミ行為をする店に入るが、ほどなくこの店はつぶれ、土地のヤクザの所へ出入りするようになる。この家の娘と男女関係になったのが露見して袋叩きの上で追い出され、再び東京に舞い戻った時、母は旗本の次男で警視庁巡査をしていた本多忠勝と再婚していた。この義父が、三遊派の二代目三遊亭小圓朝と懇意であったことから、初代桂小南を紹介されて入門。内弟子として浅草にある初代小南宅に住み込み、桂小莚(かつらこえん)の芸名をもらって前座となった。初代小南は自身が上方の落語家であるため、この新しい弟子に稽古をつけることはなく、他の弟子と連れだって近所に住む三代目三遊亭圓馬宅に行き、スパルタ式の稽古を付けてもらう。 三代目圓馬はネタ数の多さで有名で、その中には東京・大阪の演目が幅広く含まれる。食べ方一つで羊羹の銘柄を描き分け、また豆を食べるのも枝豆、そら豆、甘納豆それぞれの違いをはっきりと表現し、八代目文楽を驚かせた。稽古は丁寧かつ厳しいもので、当時の八代目文楽はただ大声で怒鳴っているだけだったので、三代目圓馬は「お前の声は川向こうでしゃべっている声だ。なぜそんな声をだすんだ」とたしなめ、半紙を取り出して登場人物の家の間取りを自ら描き、人物の位置関係を懇切丁寧に説明した。若き日の八代目文楽はポーズフィラーが多く、それを矯正することもさせられた。ガラスのおはじきを買って来て、八代目文楽が噺をさらっている時フィラーが1回出るとおはじきを1個投げつけた。最初は一席話し終えるとおはじきの数が70を越えていた。稽古を重ねるにつれておはじきの数は減っていき、やがて0になった。また八代目文楽は原稿用紙に3代目圓馬のネタをどんどん自筆で書き写して覚えるということを実行。そうした努力が実を結び、1910年(明治43年)に入門から僅か2年で二ツ目昇進というスピード出世を果たす。1911年(明治44年)、初代小南が三遊分派を起こすが失敗。東京を去ったため、師匠を失う。三遊分派の同志の一人が紹介状を書き、名古屋へ移住することを勧めたことから、三遊分派の別の同志・三代目小金井芦洲の一座に混ぜてもらう。しかし、座頭の3代目芦州自身が逃亡し、一座は消滅。単身名古屋に転居し、当地の寄席に上がる。その後、名古屋在住の三遊亭圓都のドサ周り一座に混ぜてもらい、巡業の間だけ三遊亭小圓都を名乗る。1912年(明治45年)、明治天皇崩御。歌舞音曲停止のため、巡業続行不可能と判断し、圓都一座は解散。名を桂小莚に戻して京都に行き、当地の寄席笑福亭に住み込む。初代桂枝太郎らと共に「京桂派」結成しメンバーとなる。1年滞在の後、大阪に行き浪花落語反対派に加入。当地に在住していた八代目桂文治(当時は三代目桂大和)と知り合うも、1年後には神戸に落ち延びる。上方セミプロ芸人桂門三郎の一座に入り、当時の満洲をドサ回りする。1916年(大正6年)、東京に戻る。かつて大阪で知りあった、八代目桂文治(当時は翁家さん馬)門下に移り、翁家さん生を襲名。その後、八代目文治より「真打昇進し、翁家馬之助を襲名」するように命じられたが、本人は一旦断った。八代目文治は、三遊柳連睦会(いわゆる「睦会」)に行く約束を翻して東京寄席演芸会社に所属。この一件で袂を別ち、実質的に五代目柳亭左楽門下になり行動を共にした。極めて人望と政治力があり落語界に隠然たる勢力を誇った5代目左楽によって1917年(大正7年)に翁家馬之助(おきなやうまのすけ)を襲名して真打に昇進。以後、生涯に渡り5代目左楽の弟子となり、主に人間学・対人面の技術・人心掌握術を学ぶ。また、「睦の四天王」(他は二代目桂小文治、三代目春風亭柳好、六代目春風亭柳橋)の一角を占める人気落語家になる。1920年(大正9年)8代目桂文楽襲名。その際、5代目柳亭左楽によって既存の五代目桂文楽(後の三代目桂才賀)を強引に「桂やまと」に改名させ世間から激しい非難を浴びる。新しい文楽は実際には六代目だが、末広がりで縁起がいいからと、八代目を名乗る。この頃のトップクラスの落語家は東京都内の一流料亭でのお座敷に呼ばれ、政界人、高級官僚、財界人、高級軍人を相手に余興を務めた。八代目文楽は六代目春風亭柳橋と並んで仕事の多さを誇り、毎晩数件を掛け持ちして料亭を回った。出演料も飛びぬけて高く、大学出の新入社員の初任給が2万円、ラーメンが30円、タバコが20円から40円という時代に、8代目文楽のお座敷での一回の高座のギャラが大体2万円であった。また、多くの落語家は噺だけでは間がもたずに踊りや珍芸などもやっていたが、八代目文楽はあくまでも落語だけを演じた。1923年(大正12年)、三遊柳連睦会(睦会)が一旦消滅し、落語協会に一本化されるも、旧睦会グループは離脱し、「落語睦会」として再建される。1937年(昭和12年)、落語睦会が解散。以降、5代目柳亭左楽と別行動をとり、自身で新団体「ふりい倶楽部」を結成。同年、春本助治郎と共に東宝名人会に参加した。1938年(昭和13年)、東京落語協会(現在の落語協会)に加入。1950年(昭和25年)、秩父宮雍仁親王の邸宅に招かれて落語を披露。この時は「素人鰻」を演じたが、この後何回も秩父宮邸に招かれる。1953年(昭和28年)、出口一雄に請われ、ラジオ東京(現在のTBS)と専属契約を結ぶ。他の専属落語家のように、他局と二重契約を結んだり、NHKだけは出演できる特別契約に変更したりせず契約を忠実に守り通し、後にTBSが落語家の専属制度を廃するまで一貫して専属であり続けた。1954年(昭和29年)、落語家として初めての第9回文部省芸術祭賞を受賞。1955年(昭和30年)、落語協会3代目会長に就任。1957年(昭和32年)、落語協会の会長職を勇退。後任を5代目古今亭志ん生に譲り、自身は最高顧問に就任。1961年(昭和36年)、落語家として初の紫綬褒章を受章。1963年(昭和38年)、脳溢血で倒れ、体調が万全でない5代目志ん生に代わり落語協会会長に再度就任。1965年(昭和40年)、落語協会会長職を勇退。後任に六代目三遊亭圓生を指名し、最高顧問に再度就任。1966年(昭和41年)、第21回文部省芸術祭賞を受賞。同年、勲四等瑞宝章を受章。晩年は高座に出る前に必ず演目のおさらいを行い、最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していたという。しかし、1971年(昭和46年)8月31日、国立劇場小劇場における第5次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じた際、高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず、絶句した八代目文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかったことが原因とされているが、舞台袖で八代目文楽は「僕は三代目になっちゃったよ」と言った(明治の名人・三代目柳家小さんはその末期に重度の認知症になり、全盛期とはかけ離れた状態を見せていた)。これ以降のスケジュールはすべてキャンセルされ、八代目文楽自身からの引退宣言はなかったものの、二度と高座に上がることはなく、稽古すらしなくなった。ほどなく東京の駿河台日本大学病院に入院。12月12日午前9時18分、肝硬変のため死去。享年79。
五代目古今亭志ん生と並び、落語における戦後の名人の一人と評されたは代目桂文楽。細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしないその完璧主義さは、徹底的に練りこまれていると高く評価された。中でも食べる仕草は他の追随を許さないほどであり、『明烏』の甘納豆や『馬のす』の枝豆は何度見ても絶品である。その名人が、体調の悪い時や客が合わない時に演じる安全パイのネタ『大仏餅』でやらかすとは当時誰も思わなかっただろう。完璧主義者だった文楽の気持ちを思うと、とてもやるせない。以降、高座に上がることなく、最後は大量吐血して世を去った桂文楽。脚本家の大西信行は文楽の死を「自殺」と評して哀悼の意を表した。悲しい幕切れとなった昭和の名人・桂文楽の墓は、東京都世田谷区の妙法寺にある。墓には「八代目 桂文楽之墓」とあり、左側面に墓誌が、右側面に自作の句「いま更に あばらかべっそん 恥かしさ」が刻まれている。戒名は「桂春院文楽益義居士」。