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宮田東峰(1898~1986)

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宮田 東峰(みやた とうほう)

ハーモニカ奏者
1898年(明治31年)~1986年(昭和61年)


1898年(明治31年)、群馬県前橋市に生まれる。本名は、宮田 孝三郎(みやた こうざぶろう)。生まれた当日に事業家だった父を失い、6歳の時に母と2人で母の実家に移ったが、間もなく母がインフルエンザで急逝したため、離れて暮らしていた兄姉たちに引き取られた。寺部小学校5年生の時、新聞記者をしていたドイツ帰りの義兄からおみやげにホーナー社製のハーモニカを貰ったことがきっかけでハーモニカを吹き始め、マンドリンを弾いていた次兄・信義から楽典を教わった。小学校6年生の3学期に氷川尋常小学校へ転校。学校の裏にイタリア人声楽家のアドルフォ・サルコリーが住んでおり、夕方になるとマンドリンを弾き始めるので、子ども心に競争心を起こして家の前でマンドリンに対抗するようにハーモニカを吹いた。これが縁で自宅に招き入れられて可愛がられ、その門下だった三浦環、原信子、関屋敏子とも交流を持つようになった。小学校卒業後は長兄が経営する店を手伝っていたが、1918年(大正7年)に中央大学経済学部に在学する傍ら、東京毎夕新聞に見習記者兼校正係として入社。同年、ハーモニカ演奏による『カルメン』『ドナウ河の漣』を吹き込む。また、最初のハーモニカ合奏団の一つである「東京ハーモニカ・ソサエティー」を結成。1921年(大正10年)、『愉快な鍛冶屋』『双頭の鷲の下に』のハーモニカ合奏が大ヒット。1923年(大正12年)、監修したハーモニカが発売されるのに合わせ、その品質を保証するために自分の顔をハーモニカに貼り付け、自分の顔を商標登録。1924年(大正13年)、トンボ楽器と正式に提携。翌年には「ミヤタハーモニカ」を発売し、複音ハーモニカを代表するモデルの一つとなった。この間、関東大震災が発生。芝公園や上野公園など都内の各地を廻ってハーモニカを演奏し、被災者を励ました。その後、「東京ハーモニカ・ソサエティー」を「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」に改称。併せて日本コロムビアに入社した。1937年(昭和2年)、日本ハーモニカ連盟設立に参画。戦後はいち早くミヤタ・ハーモニカ楽団を再建し、放送や公演に努めた。1953年(昭和28年)、コロムビア・ミヤタ歌謡教室を開設。歌謡科の出身者に島倉千代子らがいる。1960年(昭和35年)、藍綬褒章を受章。この頃には作曲にも力を入れ、代表曲に『十国峠の白い花』『輝く東京オリンピック』などがある。1968年(昭和43年)、勲四等旭日小綬章を受章。1974年(昭和49年)、勲三等瑞宝章を受章。1986年(昭和61年)1月31日死去。享年87。


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ハーモニカの普及に生涯を捧げ、「ハーモニカの父」と呼ばれた宮田東峰。大正から昭和にかけ、当時流行の歌謡曲を多数演奏。その演奏は「歌のない歌謡曲」として不動の地位を築いた。また、ハーモニカ楽団「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」を組織し、自らの名を冠した製品を生み出すなど、音楽界にも多大な足跡を残した。数年前、テレビ東京『なつかしの歌声』で披露した「急げ幌馬車」の再放送を観た際、その哀愁あふれるハーモニカの調べが大変素晴らしく、録画した映像を何度も何度も見たものだった。日本にハーモニカ文化を根付かせた宮田東峰の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には「宮田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「龍光院孝譽栄楽東峰大居士」。

by oku-taka | 2019-04-28 13:46 | 音楽家 | Comments(0)