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物集高量(1879~1985)

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物集 高量(もずめ たかかず)

国文学者
1879年(明治12年)~1985年(昭和60年)


1879年(明治12年)、国学者の物集高見の長男として東京市神田区駿河台(現在の東京都千代田区神田駿河台)に生まれる。同年7月、父が出羽三山の宮司に任命されたため、山形県東田川郡手向村(現在の鶴岡市)に育つ。1882年(明治15年)、帰京し東京市本郷区弓町(現在の東京都文京区本郷)に住む。1884年(明治17年)、父の教育方針で4歳9ヶ月にして本郷小学校に入れられるが、第1学年で落第を経験。1885年(明治18年)、はしかを患う。後遺症で骨膜炎となり、終生左脚の自由を失う。療養期に母や姉から疎んじられ、金食い虫と呼ばれて屈辱に耐える。同じ頃「絵本通俗三国志」「西遊記」「漢楚軍談」などを耽読。1889年(明治22年)、母と姉が相次いで病死。その後、脚が悪いため小学校に行かず、私塾で数学、英語、漢文を学ぶ。1893年(明治26年)、体操の授業を免除する条件で旧制郁文館中学校に入学。私塾出身という経歴を持ち、体が悪いために、同級生の一人から、下校時に突き飛ばされて踏み倒されるといういじめをたびたび受けたが、大きなグループに属しているといじめを受けないことを発見し、仲間を集めて回覧雑誌『木の葉天狗』を発行。自らも小説を書く。1896年(明治29年)、一部の友人たちの影響で稚児趣味に染まる。1897年(明治30年)、同人仲間の紹介で二葉亭四迷と面会。同年、稚児趣味を持つ少年グループ同士の乱闘に参加し、警視庁谷中警察署に補導される。退学処分は辛うじて免れた。1898年(明治32年)、中学を16番の成績で卒業。国民英学会と正則英語学校に通学して英語を学び受験対策を立てたが、第一高等学校受験に失敗し、神経衰弱となる。1年間の浪人時代に「面影」「お杉」「稲荷屋」などの小説を書き、『文庫』『新声』といった雑誌に掲載される。1899年(明治33年)、第三高等学校第一部文科乙類に入学。野々村直太郎や南日恒太郎、坂口昂、前川亀次郎の教えを受ける。在学中、小説「闇」を「中学文壇」に投稿し、第三等に入選。このことがきっかけとなり、長篇小説「女太夫」を「富士新聞」に連載する。1902年(明治35年)、三高を卒業。同年、父の意向で東京帝国大学文学部国史科に入り、三上参次や萩野由之、田中義成、黒板勝美、ラファエル・フォン・ケーベル、小泉八雲などに師事。在学中はビリヤードに熱中した。1903年(明治36年)、大学を中退して作家になることを考え、江見水蔭に入門を申し込んだが、文筆で生計を立てることの難しさを説かれて断念する。次いで新派俳優の藤沢浅二郎の座付役者になることを企てるが、同級生の小山内薫から忠告を受けてやはり断念せざるを得なくなる。1905年(明治38年)、博文館発行の『女学世界』に女学生向けの小説「秋の江」を発表し、初めて原稿料5円を得る。同年、帝大国史科を卒業。しかし、国史学には最後まで興味を持てなかった。在学中から日本淑女学校校主の田中秀穂に依頼されて同校で無給の講師を務めていたが、経営難につき学校を譲りたいとの田中の申し出を受けて、同校の校主となる。しかし、同校大学部国文科2年生のSと恋に落ち、このことが学内で問題視されて休職。このころ、Sとの恋を強姦事件として「二六新報」に報じられて絶望し、Sと共に大宮で心中を企てるが、友人の吉野作造に止められて未遂に終わる。この後、Sとは離別した。11月、毎日新聞社(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)への入社を望んで父・高見の知人の大隈重信に面会し、田中穂積に口を利いてもらったが不採用に終る。 年末には日本淑女学校の設備が文部省の定める基準を満たしていないことが判明し、同校が閉鎖に追い込まれる。1906年(明治39年)、朝日新聞の第1回懸賞小説に「罪の命」と題する小説を応募。比叡山中学校在職中に第一席当選の報を受け、賞金500円(現在の1000万円以上)を獲得。しかし、この賞金は父に全額持って行かれ、研究費に使われてしまった。この懸賞入選が縁となって、1907年(明治40年)に大阪朝日新聞社へ入社。夏目漱石「虞美人草」の連載などを担当した。1908年(明治41年)、父の助言で退社し、忠文舎という出版社の設立に参加したが、事業は不調。同年、馬賊の頭目の王国立と交際。将来満洲を支配すると断言した王により、その暁には物集を文部大臣に任命すると約される。この年に初めて見合い結婚して所帯を持つが、花嫁がかわらけだったために夫婦生活が齟齬を来たし、翌年には妻に逃げられた。1909年(明治42年)、スリの親分「湯島の吉」に弟子入りを志願したが、脚が悪いので断られる。このころ、博打や女遊びや稚児遊びに興じ、久松の賭場を潰す。1910年(明治43年)、実業之日本社の芦川忠雄を知り、芦川のゴーストライターを務めて生計を立てる。同年、英文学者の村井知至と共に西洋笑話を翻訳した。1912年(明治45年)、松原二十三階堂の世話で博文館に入社。同年、物集家の侍女だった矢崎八重と世帯を持つ。この女性とは離縁や復縁を繰り返した。1913年(大正2年)、博文館を退社して著述業に入ったが、賭博癖は止み難く借金をして債権者に追われた。1915年(大正4年)、父の高見が病気で倒れたため、父の「広文庫」「群書索引」編纂事業に協力する。「広文庫」「群書索引」の刊行により、ようやく生活が安定したが、この間も花札賭博に熱中し、1923年(大正12年)には花札賭博の罪で警視庁に逮捕勾留された。留置場で3日間を送り、検察庁で取調べを受ける当日に関東大震災に遭遇。賭博罪では不起訴処分となった。1939年(昭和14年)、多額の借金により差し押さえ処分を受ける。1950年(昭和25年)、多摩川沿岸で遊泳者相手に脱衣休憩所を営んだが商売に失敗。同年10月、妻の弟の矢崎寧之の板橋区の家作に転居。1951年(昭和26年)からは生活保護を受けた。1953年(昭和28年)、「内外タイムス」文芸欄に矢崎まゆみという筆名で投稿。しばしば入選する。1954年(昭和29年)、「実話読物」誌に連載を持つが、質屋の利子の支払いに追われて苦しい生活を送った。1956年(昭和31年)からクイズに熱中し、数度にわたって賞金や賞品を獲得。このクイズ熱は90歳代まで続いた。1957年(昭和32年)、妻の八重が病死。民生委員に面倒を見てもらうようになるが、生活保護が届くとたちまち池袋の場外馬券売り場に出向き、介護に来る女性が年寄りだったり、不器量だったりすると玄関から中に入れないという放蕩な生活を送る。1964年(昭和39年)、折伏を受けて創価学会に入信させられたが半年で脱退した。1974年(昭和49年)、名著普及会が「広文庫」「群書索引」を復刊。これによりやや経済的に潤った為、1976年(昭和51年)に生活保護の打ち切りが決定した。同年、東京作家クラブ賞を受賞。1979年(昭和54年)、100歳の折に著書「百歳は折り返し点」を発表。同年11月30日、『徹子の部屋』に1000回目のゲストとして出演した。特別出演の久米宏に「昔はね、色男、金と力はなかりけり、って言ってね、あなたは、現代の色男の標本だ。私は昔のハンサムボーイ、これから、私のライバルはあなただ(笑)」と発言。また、「長生きするには恋をするのがいい。私は33人目の恋人と恋愛中」「200歳まで生きるつもり」と豪語して話題を呼んだ。この個性的な人柄を黒柳徹子が気に入り、毎月のように計4回も出演し、一躍有名人となった。晩年は天文学に興味を示し、時間の起源を研究したいと天体望遠鏡を購入し、宇宙科学の勉強を始めた。1984年(昭和59年)、体調を崩して板橋区の老人施設に入居。1985年(昭和60年)10月25日、老衰のため死去。享年106。亡くなる前日には、若い看護婦のスカートに手を入れて婦長から叱責されていた。また、東京都内の男性で最も長命だったことから、当時の東京都知事鈴木俊一が弔辞を読んだ。


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1970年代後半、その長命さとユニークな言動からたちまち話題の人となった物集高量。「夏の夕方、街を若い女性が薄着でぶるんぶるんとお尻をふって歩く。それをトウモロコシを噛りながら眺めているのが長生きのもとです」と語るほど好色一代男であり、亡くなる前日には若い看護婦のスカートに手を入れて婦長から叱られるというエピソードを持つ。そんな物集高量だが、106年の生涯は実に波瀾で彩られていた。幼少期に患った骨髄炎の後遺症で左足が不自由になり、父の教育方針で4歳9ヶ月にして小学校に入れられ、朝日新聞の懸賞小説に第一席当選した賞金500円
を全額持って行かれて研究費に使われるなど、国文学者の父に振り回された人生。花札賭博、競馬などで多額の借金を作り、布団まで差し押さえられるほどの貧窮を極めた生活。72歳にして生活保護を受けるも、100歳目前で予想外のブレイクという破天荒すぎるその人生。106歳という長命さ故に交遊録も恐ろしく、友人が大正デモクラシーを先導した吉野作造と菊池寛、同級生が小山内薫、朝日新聞社時代は夏目漱石の「虞美人草」の連載を担当していたというのだから驚きである。まさに日本文学の生き証人だった物集高量の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。6基並ぶ墓域の中で、高量の埋葬されている墓には「物集家之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。妻の八重は隣に独立して建立されており、「高量妻 物集八重」と彫られている。

by oku-taka | 2019-04-27 23:39 | 学者・教育家 | Comments(0)