2019年 04月 27日
戸川昌子(1931~2016)
戸川 昌子(とがわ まさこ)
シャンソン歌手・作家
1931年(昭和6年)~2016年(平成28年)
1931年(昭和6年)、東京市に生まれる。本名は、内田 昌子。戦争で父と兄を亡くし、戦後は母と二人で同潤会「大塚女子アパート」に入居。東京都立千歳丘高等学校を中退した後、伊藤忠商事の英文タイピストとして就職。1957年(昭和32年)、多くの文化人が集っていたシャンソン喫茶「銀巴里」のバンドマスターが素人の飛び入り企画を考案。この企画に戸川は参加し、アルトでシャンソンを披露。これが美輪明宏の目に留まり、美輪はレギュラーに加えることを進言した。間もなく会社を退社し、専属のシャンソン歌手としてデビュー。その後、交際していた男性から勧められ、銀巴里での出演の合間に楽屋で長編小説を書くようになる。1962年(昭和37年)、戸川自身が住んでいた独身女性専用の同潤会大塚女子アパートを舞台としたミステリー『大いなる幻影』で第8回江戸川乱歩賞を受賞。その経歴や女流作家としてのキャラクターが受賞時に注目される。1963年(昭和38年)、『猟人日記』を発表。夜ごと女性を漁り、その様子を日記に付けていた男性に起こる連続殺人事件という大胆なストーリーが話題となり、直木賞候補となる。翌年には『猟人日記』が日活で映画化され、戸川も女優として出演。以降、テレビドラマへの出演をはじめ、タレントなど多岐に渡り活動する。作家としては、トリックの巧妙なサスペンス小説を執筆し、よく練られたプロットの妙が評価されてきたが、1960年代後半からは次第にミステリー色が薄れ、『赤い暈』『蒼い蛇』『夢魔』『透明女』といった通俗的風俗小説を発表する。1967年(昭和42年)、『深い失速』を発表。その物語性が認められ、世界8か国語に翻訳された。東京・青山(後に渋谷二丁目に移る)にシャンソンのバー・サロン「青い部屋」を開店。店名は戸川の小説作品の題名、あるいは戸川の亡兄が残した「すごい空だね。あんな青を描きたかった」ないし「こんな青があったんだ」という言葉に由来するとも言われる。店内はレズビアンをモチーフとした装飾が描かれて、全てをキャンバスとして絵画アートで埋め尽くすなど、戸川昌子独特の世界観と雰囲気を持つ異様な店内装飾を施していた。また、セクシャルマイノリティに対する偏見が多かった時代において、戸川は好んでそういったレズビアン・ホモセクシャルの人々を集め従業員に登用。そのため財界・政界・マスコミ界など、業種を問わず『大人の遊び場』として認知され、近所からは『戸川動物園』と呼ばれ、川端康成、三島由紀夫、野坂昭如、今東光、立川談志、林家三平、有吉佐和子、五味康佑、田辺茂一といった文化人が集う場所となった。また、美輪明宏、石井好子、長谷川きよしといった歌手もここで歌った。歌手としても『暗い日曜日』や阿部定を歌った『お定恨み節』『ボンボヤージュ』などを発表し、1975年(昭和50年)に出した『リリー・マルレーン』は代表作となった。同年、『失くした愛』、翌年には『インモラル物語』と2枚のLPを発表。1977年(昭和52年)、46歳の時に高齢出産を経験。当時の芸能人・文化人の最高齢出産記録としてマスコミに取り上げられ、大きな話題となる。その後、「3時のあなた」「11PM」「ライオンのいただきます」などでおばさまコメンテーターとして活躍した。1984年(昭和59年)、久しぶりの長編ミステリー『火の接吻』を発表。1991年(平成3年)、「青い部屋」で前年末に閉店した銀座の銀巴里にゆかりの歌手が登場する「銀巴里アワー」を月曜日に開催。その後も長く生バンドの演奏によるシャンソンのイベントが月曜日に開催された。2000年(平成12年)、「青い部屋」をサブカルチャーの牙城とすべく、「青い部屋」を大改装。松蔭浩之のディレクションによる内装により、シンボリックな赤いバラが青い壁に映えるヴィヴィッドなライヴカフェへと転生した。戸川とは旧友である『男と女』の作曲者ピエール・バルーをはじめ、英国のモーマス、仏のサンセヴェリーノなど海外の歌手も多数出演し、「青い部屋」はインターナショナルなライブ・ハウスとして隆盛。戸川も連日出演し、若者の認知を大幅に増やした。2005年(平成17年)、約30年振りのソロアルバム『ラスト・チャンス・キャバレー』を発表。2010年(平成22年)、「青い部屋」の運営責任者だった男性が運転資金を持ち出して失踪。家賃の滞納なども明らかになり、経営難から閉店することとなった。閉店後は「青い部屋」名義で、コンサート、イベント、インターネットメディアなどに場所を移したが、2011年(平成23年)に末期癌の宣告を受ける。以降は治療を続けながら活動をしていたが、2016年(平成28年)1月に痛みを訴えて入院。静岡県浜松市内の病院で緩和ケア治療に取り組んでいたが、2016年(平成28年)4月26日午前5時47分、胃がんのため死去。享年85。
歌に生き、恋に生きた戸川昌子。多くの男性と関係を持ち、46歳のときに産んだ子供は父親が誰かさえ自分でもわからなかった。作家になったのも、当時愛した男から勧められたからであった。そんな戸川が恋以上に愛したもの、それが歌であった。作家業やタレント業がどんなに忙しくても、彼女はステージに立ってシャンソンを歌うことだけはやめなかった。伝説のサロン「青い部屋」の経営を自らが行い、長谷川きよしやジョニー大倉といったミュージシャンも育てた。晩年も歌への情熱は衰えることなく、末期癌の宣告の後も「最後までステージで歌い続け、戸川昌子らしく生きたい」として、亡くなる直前まで歌い続けた。歌って、書いて、恋をした戸川昌子の墓は、東京都港区の高徳寺にある。自身が建立した小さな墓には「戸川家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「浄賢院楽音文昌大姉」。