2019年 04月 25日
樹木希林(1943~2018)
樹木 希林(きき きりん)
女優
1943年(昭和18年)~2018年(平成30年)
1943年(昭和18年)、東京府東京市神田区に生まれる。本名は、内田(旧姓:中谷) 啓子。千代田女学園に入学後、演劇部に在籍し、その傍ら薬剤師を目指していたが、大学受験直前にスキーで足を怪我したため、大学進学を断念。そのとき、戦後初めて三大劇団が研究生を募集することを新聞広告で知り、受験を決意。文学座、俳優座、民藝の順番で試験があり、一番早かった文学座の試験を受け、一次試験は約千人いたが、二次も通り、1961年(昭和36年)に文学座一期生として付属演劇研究所に入る。芸名は「芸能界では“勇気”が必要」として父親が考案し、千帆は版画家の前川千帆から採られ、「悠木千帆」名義で女優活動をスタートする。文学座研究所では「あんた、勘のいい子ねッ、来てちょうだい」と杉村春子に見出されて付け人を務めた。1963年(昭和38年)、文学座の分裂が起こるも、杉村から「あんた残ってちょうだい」と頼まれ残留。1964年(昭和39年)、森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演。森繁との軽妙なやりとりで一躍注目を集める。 このドラマで森繁の影響を強く受け、後年「それまで新劇にいてまじめな芝居しかやってこなかったんで、森繁さんが本なんか無視して、どんどんその場でつくっていく面白さに洗礼を受けました。森繁さんと杉村さんの違いは、森繁さんは自分で表現していこうとする人、杉村さんはもう書かれた台詞を言う。結果、名作が残ったんですよね。この二つを同時代に同時に見てきたわけですから、両方のいいとこを取り入れていけば、まだ食っていけるという感じはします」と語っている。1964年(昭和39年)、俳優の岸田森と結婚。しかし、4年後に離婚。1965年(昭和40年)、文学座の正座員となるが、翌年には文学座を退団。1970年(昭和45年)、水曜劇場『時間ですよ』(TBS)に出演し、不動の人気を得る。以降も、個性派女優として多くのテレビドラマ、映画、舞台に出演。私生活では、1973年(昭和48年)に内田裕也と再婚。しかし、1年半で別居し、その後43年にわたり別居生活を続けた。1974年(昭和49年)、TBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』では、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じた。実年齢は小林より10歳以上若く、頭髪を脱色し「老けメイク」を施し、当時30代前半のまだまだ若い手との不自然さを隠すため、劇中は指ぬき手袋を外さなかった。本作品の劇中において、寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、自分の住む離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた沢田研二のポスターを眺めて「ジュリーィィィ!!」と腰を振りながら悶えるシーンが話題となった。1977年(昭和52年)、『日本教育テレビ』(NETテレビ)から『全国朝日放送』(テレビ朝日)への局名・会社名称変更を記念して放送された特別番組『テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継』の中のオークションコーナー「にんげん縁日」で、「売る物がない」との理由で特に思い入れが無かったという自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけた。このことは、この放送前にスポーツ紙で報道されたこともあって、つかこうへいから「200万円で売って」と持ち掛けられたこともあったが、これを断った。結局、名前は40万円で通りすがりだったという東京・青山のブティック店主が落札し、その40万円はチャリティ-として寄付した。芸名の売却後、芸名を本名の内田啓子にすることも考えていたが、内田裕也が「(内田を芸名にすると)俺の個性が君の芸にからむようでまずい」と反対し、TBSプロデューサーの久世光彦からも「そんなイージーな役者は死ね」と叱られた。その久世からは「芸名が変わると誰だかわからなくなるから、買い戻してくれないか」とも、「『母啓子』(ははけいこ)という芸名はどうだ。年をとったら、母に濁点付けて『母゛(ババ)啓子』だ」とも言われたことがあった。仕方なく、辞書を引いて文字を拾いながら決めることにし、この4文字から「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた。同年、ドラマ『ムー』で共演した郷ひろみとのデュエットで「お化けのロック」をリリースし、歌手としてもデビュー。1978年(昭和53年)には「林檎殺人事件」が大ヒットした。1979年(昭和54年)、『ムー一族』の打ち上げパーティーが行われ、樹木は最後のスピーチを務めたが、その中で番組プロデューサー久世光彦と「近松屋のともこ」役の女優のぐちともこが不倫関係にあり、この時既にのぐちが妊娠8か月であったことを暴露したことから、スキャンダルに発展し騒動となる。関係者の間では「公然の秘密」とされていたが、この場で久世は全てを認め、後に正式離婚し、のぐちと再婚している。久世はこの騒動の影響もありTBSを退社。制作会社「カノックス」を設立する。久世とはドラマ『坊ちゃんちゃん』まで17年間絶縁状態となったが、樹木には周囲と険悪な関係になりながらも「久世さんがああした状況の中でなし崩しにショボショボしていくのが耐えられなかった」、「2人の気持ちを軽くしてやろうと思った」との真意があった。また、こうした場での暴露を非難する声に対しても「ああいう見せかけの優しさが久世さんをダメにした」と反論している。1981年(昭和56年)、内田が無断で離婚届を区役所に提出。しかし、樹木は離婚を認めず、離婚無効の訴訟を起こし勝訴した。その後は1年に1回連絡を取り合う程度の関係となった。1979年(昭和54年)、ピップエレキバンのCMに出演。横矢勲ピップフジモト会長(当時)との掛け合いは人気を集めた。1980年(昭和55年)には、フジカラーのCM『フジカラープリント お名前篇』に出演し、お見合い写真を現像しにきた客(綾小路さゆり)役の樹木と写真屋の店員役の岸本加世子との「美しい人はより美しく、そうでない方は…」「そうでない場合は?」「それなりに映ります」というやり取りが流行語となった。フジカラーのCMには40年にわたって出演し続けた。1986年(昭和61年)、NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』にヒロインの母役で出演。このドラマの演技が高く評価され、翌年に第37回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。2003年(平成15年)、網膜剥離で左目を失明。2005年(平成17年)には乳がんで右乳房の全摘出手術を行うなど、病との二人三脚生活を送るようになる。2008年(平成20年)、紫綬褒章を受章。2013年(平成25年)、第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。そのスピーチにおいて、全身がんであることを告白したが、翌年の1月16日には1年半ぶりのがん治療が終了したことを会見で公表している。この頃より「がんを患ってから、テレビのペースに身体が合わなくなってきた」として活躍の場を映画に移した。2014年(平成26年)、旭日小綬章を受章。2018年(平成30年)8月13日、友人宅で転倒し、大腿骨を骨折。同月15日に緊急手術を行い、翌16日に予定していた生放送への出演を見送り、電話で出演して状況を報告した。その後、一時危篤状態に陥るも持ち直し、30日には娘婿の本木雅弘を通じて「細い糸1本でやっとつながってる。声一言もでないの。しぶとい困った婆婆です」という直筆の文書を披露した。しかし、9月14日深夜に容体が急変。家族が別居中の内田裕也に連絡を入れ、声が聞こえるようにと携帯電話のスピーカーをオンにセット。裕也は意識が薄れゆく希林に呼び掛け、それから間もなくの午前2時45分、東京都渋谷区の自宅で死去。享年75。
日本を代表する個性派女優・樹木希林。その卓越した演技と抜群のコメディセンスで映画・ドラマ・CMと幅広く活躍した。特に当時まだ31歳という若さながら老け役に挑戦した『寺内貫太郎一家』は、自分の部屋に飾ってあるポスターに向かって毎回「ジュリー〜!!」と叫ぶシーンが話題となり、彼女の当たり役となった。向田邦子、久世光彦作品で見せたコメディアンヌから、NHKの『夢千代日記』『はね駒』などで演技派に見事脱皮し、名脇役の地位を欲しいままにした。一方の私生活では、破天荒な夫・内田裕也に振り回されながらも離婚を頑なに拒否し、久世光彦の不倫をぶちまけて芸能界の仲間から顰蹙を買っても何ら気にしないという、少々変わった性格の持ち主だった。2011年、内田裕也が当時交際していた女性に復縁を迫り、ストーカー行為をして逮捕されたときに応じた記者会見あたりから、その変わった性格とサバサバとした言動に注目が集まるようになった。ロック歌手の夫よりロックに生きた樹木希林の墓は、東京都港区の光林寺にある。亡くなる直前に自分が入るからと立て直した墓には「内田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「希鏡啓心大姉」。同墓には、樹木の死から半年後に亡くなった内田裕也も納められている。