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内田裕也(1939~2019)

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内田 裕也(うちだ ゆうや)

ミュージシャン
1939年(昭和14年)~2019年(平成31年)


1939年(昭和14年)、兵庫県西宮市に生まれる。本名は、内田 雄也。その後、大阪府堺市に転居し、堺市立大美野小学校を経て1952年(昭和27年)堺市立三国丘中学校に入学。中学二年の時、清教学園中学校に転入。少年時代は発明に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会副会長を務める。1953年(昭和28年)には大阪市立旭陽中学校へ転入し、ラグビー部に所属した。1955年(昭和30年)、大阪府立旭高等学校に入学。高校では野球部に所属する一方、映画『暴力教室』と石原慎太郎の『太陽の季節』にショックを受ける。1956年(昭和31年)、この年にデビューしたエルヴィス・プレスリーに憧れ、ホウキをギター代りに一日中ロックンロールを歌う。その後、同校を退学して大阪府立三国丘高等学校に転校する。1957年(昭和32年)に高校を卒業し、日本大学法学部の夜学に入学するも中退。バンドボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(後の佐川満男)とともにバンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドのブルー・キャップスを結成する。1958年(昭和33年)、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(後の作曲家・中村泰士)、北原謙二などがいた。1959年(昭和34年)、渡辺プロダクションに所属。同年、日劇ウエスタンカーニバルへ初出場する。1960年(昭和35年)、かまやつひろし、高見純とバンド「サンダーバード」に参加。しかし、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、1961年(昭和36年)山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。 1962年(昭和37年)、寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。この頃、歌謡界で和製ポップスが流行していたにもかかわらずプレスリーものばかりをレパートリーとする内田に、渡辺プロは普通の歌を唄わせようとしたが、内田は強く反発した。 1963年(昭和38年)、フジテレビ『ザ・ヒットパレード』、TBS『パント・ポップショー』などの音楽番組に出演。また、恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』で映画にも初出演する。1965年(昭和40年)には『エレキの若大将』に勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー...なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス...シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技を披露した。この頃から、ベンチャーズやビートルズの影響により、ロック色を強めた活動に転換していく。1966年(昭和41年)、6月に行われたビートルズ日本公演に、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演。共演にあたり、尾藤イサオらと『ウェルカム、ビートルズ』という曲を作り、同公演で披露した。同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していたファニーズ(後のザ・タイガース)をスカウト。東京へ活動の場を移させ、「内田裕也とタイガース」として内田のバック・バンドを足がかりに、ジャズ喫茶・新宿ACBなどからステージ活動を広げる計画を持ちかける。しかし、1967年(昭和42年)にタイガースが渡辺プロに加入したことにより、ロック一途の志と合わず計画が頓挫。また、所属する渡辺プロダクションと自身の活動で軋轢が生ずる。内田は広い人脈を築き、裏方的な役割を志向するが、プロダクション配下で行う芸能活動と両立できず、また、会社側に提案したロック音楽プロデュースという役割も当時は理解されず退社の余儀ない状況に追い込まれる。一方、春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、ロンドン、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとしたバンド「フラワーズ」を結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレインなどのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する。1969年(昭和44年)、デビュー・シングル「ラスト・チャンス」を発表。同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。その後、麻生レミとスチール・ギターの小林克彦が武者修行のため渡米し、バンドは解散。1970年(昭和45年)、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル)、石間秀樹(リードギター)、そしてメンバーを新たにピックアップして「フラワー・トラベリン・バンド」として再編成。自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当し、同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。その後、日本万国博覧会で出会ったバンド「ライトハウス」のプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことや、オリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。1971年(昭和46年)4月、当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。1972年(昭和47年)2月、ライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年(昭和48年)2月にはカナダより凱旋帰国後に行われた横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、4月の京都円山公園でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。その後、初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。また、ロックンロール振興会を発足し、「ロックンロール・カーニバル」を開催。気鋭のクリエイションを育てることに全力を注ぐ。10月には悠木千帆(後の樹木希林)と結婚。12月には「打倒!NHK紅白歌合戦」をテーマとして年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催。以降、イベント名を度々変えながらも計42回開催された。一方で、国外アーティストの招聘にも労力を注ぎ、1974年(昭和49年)にワンステップフェスティバル、1975年(昭和50年)には日英米のロック・ミュージシャンが対等の立場でステージに立つという夢を実現させた「第1回ワールドロック・フェスティバル」の主催、ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズなどの来日に尽力した。1970年代後半からは映画俳優としても活躍し、神代辰巳監督の『嗚呼!おんなたち 猥歌』では、本人のキャラクターを活かした歌手役を演じた。また、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』では脚本・主演を兼ね、いずれも衝撃的な作品として評判となった。しかし、1977年(昭和52年)佐世保警察署に大麻取締法違反の疑いで逮捕。1979年(昭和54年)には妻の樹木が『ムー一族』の打ち上げパーティーの席上、番組プロデューサーの久世光彦と番組出演者の不倫を暴露し、その騒動を聞きつけた内田はパーティー会場へ乗り込もうとするが、入店を断られたため店員と押し問答となった揚句、パトカーが出動する騒ぎを起こした。同年、加藤和彦、永島達司らと共にカメリアレコード発足。レーベル・ロゴは横尾忠則に依頼し、第1弾としてBOROがデビューした。1981年(昭和56年)、日劇閉鎖に伴い『最後の日劇ウェスタンカーニバル』をプロデュース。また、チャク・ベリーの初来日で、日本人バックミュージシャンのコーディネートなどのサポート等を行い、全公演に付き合った。一方で、離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず訴訟となり、離婚無効との判決が下る。1983年(昭和58年)、ウドー音楽事務所に包丁を持って押し入り、銃刀法違反で逮捕。泥酔状態で「外国人ばかり使うな」などと叫んでいたという。1991年(平成3年)、アントニオ猪木が一度出馬表明しながら撤回したことに触発され、東京都知事選挙に立候補。選挙公報は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きで書かれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込むことを求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)とローマ字で政策を書いた。また、政見放送の冒頭から10秒間の沈黙の後アカペラで「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、後半にも「コミック雑誌なんかいらない!」を歌い、英語及びフランス語で主張を演説した。また、選挙戦最終日の4月6日の街頭演説では対立候補である「鈴木俊一」と書かれたたすきを帯び、ほとんど演説をしないまま演奏に終始し、最後は「明日は投票日、絶対に入れないでください」との言葉で締めた。数々のエピソードを作り、メディアからは「売名出馬の泡沫候補」と批判されて結果的には落選したが、無所属(政党推薦候補除く)ではトップの票(5万4654票、16人中5位)を獲得した。2011年(平成23年)5月13日、交際していた50歳の女性会社員に別れ話を持ちかけられ、復縁を迫ろうと、「会社に連絡した。内容は、暴力団と交際している。アブリをやっている。まだ実名は言ってない!よく考えて一週間以内にTELLを!今ならまだ間に合う!」(原文ママ)などと書いた文章を女性宅のポストに投函(とうかん)した。さらに同月19日、女性宅を自分の家と偽って鍵屋に頼んで鍵を無断で交換し、女性宅に侵入したとしている。帰宅した女性が110番通報し、内田は同署で事情を聴かれた。交際していた会社員の女性に対し、4月2日に女性宅のポストに復縁を強要する内容の文書を投函し、4月19日には女性宅の玄関の鍵を付け替えて侵入をして、警視庁原宿署は強要未遂と住居侵入の疑いで逮捕した。玄関の鍵が開かないことを不審に思っているところに内田が部屋の中から出てきたという。3月にはストーカー行為を110番通報され、4月には被害届も提出されていた。5月31日に起訴猶予処分で原宿署から釈放され、6月3日に銀座博品館劇場にて謝罪会見を行った。2014年(平成26年)、29年ぶりにシングル盤として『シェキナベイベー』を指原莉乃とのコラボレーション・デュエットという形で発売した。2016年(平成28年)、英国・ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。2017年(平成29年)には転倒して右足甲を骨折。同年11月には脱水症状を起こして緊急入院するなど、晩年は怪我や病気が続いたことで体力が低下。車椅子生活を余儀なくされていた。2018年(平成30年)9月15日、妻の樹木と死別。その約半年後となる2019年(平成31年)3月17日午前5時33分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年79。


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日本のロック黎明期に歌手やプロデューサーとして活躍した内田裕也。歌手としてはビートルズ来日公演の前座として出演し、特にプロデューサーとしては、ザ・タイガースのスカウトし、フラワー・トラベリン・バンドを組織して全編英語の歌詞で世界へ勝負したりと、邦楽ロックの先駆者として常に時代の最前線で活躍していた。しかし、内田裕也といえば、過激な言動と行動で世間を賑わせ続けた側面があまりに強い。麻薬から暴力事件、女性問題、離婚訴訟、そして逮捕と、彼の生き様は過激そのものであった。71歳にもなって女性に復縁を迫り、挙句の果てには脅迫とストーカーをして逮捕されたときはさすがにドン引きした。都知事選に立候補したかと思えば政見放送で「パワートゥーザピープル」を歌いだし、暴力団組長の誕生会で、タコ踊りのような「ジョニー・B.グッド」を披露し、その映像がYouTubeに流出すると実名で削除申請を出してきたりと、本当に話題に事欠かない人で、今思うと呆れる反面大いに笑わせてもらった。それだけに、車椅子に乗って声を出すのもやっとな晩年の姿を見たときは複雑な心境になった。スキャンダラスだったロック界のドン・内田裕也の墓は、東京都港区の光林寺にある。墓には「内田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「和響天裕居士」。

by oku-taka | 2019-04-25 17:54 | 音楽家 | Comments(0)