2019年 04月 25日
榎本喜八(1936~2012)
榎本 喜八(えのもと きはち)
プロ野球選手
1936年(昭和11年)~2012年(平成24年)
1936年(昭和11年)、東京都中野区に生まれる。5歳の時に太平洋戦争が勃発。集団疎開に出発する日、33歳の母親が病死。戦争に出征した父親は、終戦後もシベリア抑留され、しばらく帰ってこなかった。そのため、祖母と幼い弟と3人暮らしをしていた幼少時代の榎本は、極貧に苦しむこととなる。雨漏りを放っておくと屋根に穴が開き、寝室には雨が降ってきたという。畳には茸が生え、家の中で傘を差して立ったまま朝を迎えた日もあった。電車に乗ることもできず、当時は近所を走る武蔵野鉄道(現在の西武新宿線) に乗ることに憧れていたという。1943年(昭和18年)、近所の友人の姉に連れられて職業野球を後楽園球場へ観戦に行った事が、野球を始めたきっかけとなった。その際に球場の美しさと巨人の呉昌征・青田昇や大和軍の苅田久徳のプレーに強い印象を受けた。空腹と極寒の日々の中で、職業野球は榎本の唯一の希望となり、その後、「おばあちゃんを温かい家に住まわせてやりたい」という強い意志から、プロ野球選手を目指すようになる。1952年(昭和27年)、早稲田実業学校高等部に入学。同期の80人が卒業時には7人しか残らなかった猛練習に耐え、強打者として頭角を現し、2年生の春には4番打者を務める。榎本の打撃スタイルはバットを長く握ってのフルスイングであり、流し打ちすることを好まなかった。早実のスタイルはバットを短く握ってコツコツ当てるというものであったため、OBのひとりが榎本の打撃を矯正しようとしたが、榎本は従わなかった。そのため、同OBが監督に進言し、補欠に回されることもあったという。3年生時の1954年春の全国大会準々決勝では3番打者を務めるが、主軸打者の責任によるプレッシャーやチャンスに弱い面が目立ち、4打数ノーヒットに終わった。一方、3番や4番を打つと敬遠されることも多かったため、当時の榎本はスラッガータイプであったにも関わらず、以降は1番打者が定位置となった。早実は強打の榎本が出塁して後続が返すという得点スタイルを確立。同年夏の大会では、自身3度目の甲子園出場を果たした。準々決勝で敗れたが、早実は戦後初の夏ベスト8に入った。地方大会では強打者として鳴らし、1954年(昭和29年)夏の全国大会前の朝日新聞記者による座談会(8月12日付)では、出場選手の中で榎本は「十指に入る打者」という評価を得ていた。しかし、全国大会になると途端に打てなくなり、2年生時からの全国大会通算成績は打率.143(21打数3安打4四球)に終わっている。また、同年の全国大会敗退後の北海道国体では打棒が復活し、準々決勝の北海戦では本塁打と三塁打を放ってチームの4強入りに貢献している。しかし、当時はドラフト施行前であり、選手獲得は各チーム次第であった。榎本は「荒い打者」という評価から、どこからも声をかけられることがなかった。プロ入りを熱望していた榎本は、高校1年生時、早実の先輩で毎日オリオンズでもプレーすることが決まっていた荒川博に、オリオンズへの入団を頼んだ。荒川は「これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる」と軽くあしらったが、榎本は口約束を真に受け、高校生活3年間素振りを敢行。3年生の秋に荒川の自宅を訪れ「毎日振りました。プロに入れて下さい」と土下座して懇願し、荒川も断りきれず、入団テストの運びとなった。1955年(昭和30年)、荒川の積極的な売り込みにより、毎日オリオンズの入団テストが無理矢理組み込まれる。入団テスト時、榎本の数打席を見ただけで、往年の名選手でもあった監督の別当薫や、一塁手の西本幸雄が目を見張り、完成されたバッティングフォームと優れた選球眼が認められテストに合格し毎日オリオンズに入団する。川上哲治2世の呼び声もあり、球団側も期待して背番号は「3」を与えられた。 プロ入り後はオープン戦で活躍し、開幕戦から5番打者を打つなど、高卒1年目からレギュラーとして活躍。デビュー戦の4打席目(それまでの3打席は無安打)には早くも敬遠を受けた。その後は3番打者に定着し、オールスターゲームにもファン投票で選出され、スタメン出場を果たす。安打が1本足りず打率3割は逃すが、シーズンを通して打率・本塁打・打点部門のすべてでリーグ10位以内に入り(本塁打はリーグ6位)、出塁率は山内一弘と中西太に次いでリーグ3位の.414を記録した。139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録であり(三塁打はタイ記録)、打率.298・67打点・232塁打・10死球も清原和博に破られるまでは歴代最高記録であった。同年、新人王を獲得。この年に記録したRCWIN4.40は高卒新人選手としては歴代1位である(高卒2年目の翌1956年も4.39を記録)。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から、新人にして「安打製造機」と呼ばれた。反面、打撃とは対照的に守備は不得手であった。そのため当時の一塁手だった西本幸雄は、榎本が自分のポジションを奪うかもしれない選手だったにも関わらず、榎本に徹底的に守備をたたき込んだ。その甲斐あってか、榎本は2年目の1956年(昭和31年)に一塁手におけるシーズン守備機会とシーズン刺殺数の日本記録を樹立した。また、この年はリーグ9位の打率.282・リーグ4位の15本塁打を残すなど、高卒から2年連続で打率・本塁打・打点の部門のすべてでリーグ10位以内に入り、95四球で2年連続となるリーグ最多四球を記録。一塁手のベストナインに選出される活躍を見せた。しかし、3年目以降はランナーがたまって打席が回ってくると「ここで打てなくて負けたら自分のせいだ」とマイナス思考に陥って凡退する、打てないと給料が下がることを気に病む、といったことを繰り返して精神面で深みに嵌り、伸び悩んだ。荒川博など早稲田出身者による宿舎での打撃論議の中で、様々なアドバイスを受けるが、結果には繋がらなかった。榎本は幼少時代に貧乏に苦しんだという経験によるトラウマから、凡退する度に「打率が3割を切ると給料がさがる」、「3割を打たなければ給料が上がらない。おばあちゃんを楽にしてやれない」と思い込み、肩に無駄な力が入りすぎてフォームが崩れて打てなくなり、さらにファンからの野次を真に受けて落ち込むなど、悪循環の繰り返しでスランプに陥っていた。チーム事情もあり、1958年(昭和33年)はクリーンナップを外れて1番打者を務めた期間もあった。1959年(昭和34年)は主に2番打者を務める。同年オフ、チームメイトで先輩の荒川博に合気道を紹介され、藤平光一に師事。そこで合気道をヒントにして得た打法と呼吸を研究して精神面の強化を図り、打席内で体の力を抜く方法を会得する。1960年(昭和35年)には3番打者に戻り、打率.344で首位打者を獲得する活躍を見せ、リーグ5位の66打点も残し、チームのリーグ優勝に貢献。山内一弘・田宮謙次郎・葛城隆雄らと共に「大毎ミサイル打線」の一翼を担った。1961年(昭和36年)は主に1番打者や2番打者として出場。9月に24歳9ヵ月で通算1000本安打を達成し、プロ野球史上最年少記録を樹立した。シーズン終盤まで張本勲と首位打者争いを繰り広げ、1番打者でスタメン出場した10月17日の東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回に敬遠を受けた。同年シーズンはリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打を記録する。1962年(昭和37年)からは3番打者に戻り、5月2日から6月3日にかけて23試合連続安打を記録。翌年もリーグ2位の打率.318を記録するなど、チームの主力打者として活躍。この年からは3番打者のほかに4番打者を任されることも多くなり、特に主力選手が抜けた1964年(昭和39年)以降はチームの顔として期待されるようになる。1965年(昭和40年)は低迷するが、1966年(昭和41年)にはシーズンを通してほぼ3番に座り、リーグ1位の打率.351・リーグ4位の24本塁打・リーグ3位の74打点という自己最高の成績を残して自身2度目の首位打者を獲得。当時のパ・リーグ新記録となる通算843四死球を樹立し、自身4度目の最多安打も記録した。1967年(昭和42年)はリーグ7位の打率・リーグ2位の出塁率を残す。1968年(昭和43年)5月14日から6月18日までは2番打者を務め、それ以降は5番打者に定着し、シーズンではリーグ4位の打率.306を記録した。同年7月21日の対近鉄戦(東京スタジアム)ダブルヘッダー第一試合の第1打席にて、鈴木啓示投手の初球を打って右翼線への二塁打とし、プロ野球史上3人目となる通算2000本安打を達成。31歳7ヶ月での達成はプロ野球史上最年少記録である。続いて行なわれたダブルヘッダー第二試合では、近鉄の安井智規がセーフティバントを試みて一塁ベースへ駆け込んだ際、榎本と強く接触したため、二人は口論から殴り合いに発展した。これが発端となって両チーム全員入り乱れての大乱闘となり、近鉄の控え内野手であった荒川俊三が榎本の頭部をバットで殴った。榎本は意識を失って倒れ、担架で球場医務室に運ばれるという災難に見舞われている。1970年(昭和45年)は5月下旬から主に1番打者として起用され、6月13日の西鉄戦では代打サヨナラ本塁打を放つなど、規定打席不足ながら打率.284・15本塁打の成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献。巨人との日本シリーズでは、江藤慎一、前田益穂と併用され3試合の出場にとどまるが、7打数3安打と活躍した。1971年(昭和46年)には江藤が一塁手に定着し、出場機会が急減。同年はプロ野球史上5人目となる通算3500塁打を達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイトは小山正明だけであった。1972年(昭和47年)、西鉄ライオンズにトレードで移籍。既に引退して西鉄の監督に就任していた稲尾和久は、「榎本の洗練された技術と打撃理論は、まだ若い西鉄の選手たちの生きた手本になる」と考え期待を寄せていた。榎本も稲尾のこの意図を汲み「今後は一兵卒として監督の手助けをしていく」と発言し、「榎本は選手としてのピークを過ぎて前にも増して気難しくなり、奇行を繰り返しているようだ」との話を耳にしていた西鉄の首脳陣を安堵させたという。しかし、若手選手たちには榎本の打撃理論は難解すぎ、その理論と直結している技術もほとんど伝わらなかった。失望した榎本は若手への指導を諦め、試合前の練習中に客席から「それ、頑張れ」と大声を上げて稲尾らを困惑させるなど、次第に自暴自棄にも見える態度を取るようになっていった。選手としては主に代打の切り札として起用され一定の成績を残したが、オリオンズ時代の輝きを取り戻すには至らず、同年に現役引退。通算2314安打は、引退時はパ・リーグ記録で、プロ野球史上では川上哲治に次いで歴代2位であった。また、背番号3番を18シーズンにわたって使用したが、これはパ・リーグ史上最長記録である(日本プロ野球史上最長記録は立浪和義の22年)。引退後は憧れであった打撃コーチの役職に就任するための体作りとして、自宅とかつてのオリオンズ本拠地である東京スタジアムの間、往復約42キロを1日おきにランニングしていた。ところが現役復帰を目指しているという噂が立ったことや(通算打率3割復帰が目標という憶測もあった)、現役時代の件もあり、結局コーチ就任の声は掛からなかった。晩年は地元の中野区でアパートを経営して生活し、前述のランニングは古希を越えても時々やっていたという。引退後は球界と一切の接触を断っていた。日本プロ野球名球会が創設された当初は会員となっていたが、1度も参加していないため、脱会扱いとされている。2011年(平成23年)11月下旬、大腸癌発見により入院。2ヶ月の入院後、自宅療養していたが、2012年(平成24年)3月14日午前2時4分、大腸癌のため東京都新宿区の病院で死去。享年75。没後の2016年(平成28年)、野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)に選出された。同日に記者会見した長男の喜栄(よしひで)は、「正当な評価をいただいて、ありがたい気持ちでいっぱいです。今回のような賞をいただいたことで、父の選手としての印象もしっかり残ることになりますね。ファンの方、新しい世代の方に父のことを分かっていただけるとありがたいです」と喜びのコメントを出した。また晩年の榎本の様子については「指導者として球界に恩返ししていないのが心苦しいようでした」と振り返り、インターネットの情報や著作で榎本のことを知ったファンからよく手紙が届いていたことについては、「(榎本は)送られてきた色紙などによくサインをしておりました。そういう意味では、死ぬまで野球一色だったと思います」と語った。そして「関係者の方からは『ご存命中に殿堂入りしていただきたかった』といったお言葉もいただきますが、他界した後で功績を評価していただけたというのも、不器用な父らしくていいのではないかなと思います」と述べた。
毎日オリオンズの中心選手として活躍し、「安打製造機」の異名をとった伝説のプロ野球選手・榎本喜八。1000本安打・2000本安打の最年少記録を保持し、その他にも数々の高卒新人記録を打ち立てた。そのプレースタイルはいかなる投手のボールであってもストライクゾーンに来れば反応したといわれ、才能・感性に裏打ちされた打撃理論と選球眼は野村克也にして「攻略法がなかった」と言わしめるほどだった。その反面、指導者だった荒川博や与那嶺要といった選手たちが口を揃えるほど生真面目で、試合前に座禅を組んだり、自宅の庭に専用の打撃練習場を造るなどのエピソードが知られている。そこから生まれた「榎本式」打撃理論が難解すぎたことや後年の奇行で自分の思う通りの活躍ができず、選手生活の晩年は実に寂しいものとなってしまった。平成に入ってその求道的なスタイルと数々の逸話が話題となってようやく評価され始め、引退から44年目でようやく殿堂入りを果たした。生真面目で不器用すぎた野球の神様の墓は、東京都渋谷区の立正寺にある。墓には「榎本家」とあり、下部に墓誌がある。戒名は「誠行道徹居士」