2019年 04月 22日
荒川博(1930~2016)
荒川 博(あらかわ ひろし)
プロ野球コーチ
1930年(昭和5年)~2016年(平成28年)
1930年(昭和5年)、東京都台東区浅草に生まれる。早稲田実業学校から早稲田大学商学部へ進学。東京六大学リーグでは通算81試合に出場し、打率.280(289打数81安打)・1本塁打・40打点を残した。1953年(昭和28年)、毎日オリオンズへ入団し、同年3月22日の大映戦(後楽園)に2番・右翼手で初出場。31日の阪急戦(後楽園)で天保義夫から初安打・初盗塁、4月25日の大映戦(福島信夫ヶ丘)では初打点を含む2打点を記録。同年のオールスターゲームにも選出され、全3試合に7番・右翼手で先発出場。8月5日の南海戦(大阪)では中原宏から初本塁打を放ち、打率.315で周囲の期待に応える。1954年(昭和29年)からはレギュラーに定着し、自己最多の5本塁打を記録。この年のシーズンオフ中、自宅近くの隅田川周辺を散歩していた荒川は、当時14歳だった王が出場していた少年野球の試合を偶然にも観戦。王の非凡な才能と純粋さに心を奪われ、王に早稲田実業学校への進学を勧めた。これが二人の運命的な出会いとなった。1955年(昭和30年)、登録名を「博久」に改名。また、この頃に早実の後輩であった榎本喜八を積極的に売り込む。かねてよりプロ入りを熱望していた榎本は、高校1年生時に荒川へオリオンズへの入団を頼んだ。荒川は「これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる」と軽くあしらったが、榎本は口約束を真に受け、高校生活3年間素振りを敢行。3年生の秋に荒川の自宅を訪れ「毎日振りました。プロに入れて下さい」と土下座して懇願し、荒川も断りきれず、入団テストが無理矢理組み込まれる。入団テスト時、榎本の数打席を見ただけで、往年の名選手でもあった監督の別当薫や、一塁手の西本幸雄が目を見張ったとされる。そして完成されたバッティングフォームと優れた選球眼が認められテストに合格する。1956年(昭和31年)、自己最多の122試合に出場するが、シーズン本塁打は初めてゼロに終わる。同年、ファンであった歌舞伎役者の六世尾上菊五郎の著書『おどり』の「間を習うために植芝(盛平)先生の所に行った」と記したのを読み、『(六世菊五郎のような)あの名人が習いに行くくらいだから本物の先生だろう』と思い、自身も合気道を習うべく合気道創始者の植芝盛平に入門。長期に渡り指導を受け、合気道の鍛錬を経て「間」と「気」をバッテイングに応用できる境地に達する。1957年(昭和32年)、登録名を本名に戻し、8月30日の南海戦(大阪)で木村保から2年ぶりの本塁打を記録。自身初の代打本塁打となった。1958年(昭和33年)、4本すべて近鉄から放ち、そのうち3本は日生球場から記録。5月22日には山下登から4年ぶり自身2度目で最後の満塁本塁打を放っており、2日前の20日にも山下から放った。 一方、チームメイトで早実の後輩である榎本が喜八が精神面で深みに嵌り伸び悩む。荒川は早稲田出身者による宿舎で打撃論議の中で様々なアドバイスを送るが、結果には繋がらなかった。そこで、1959年(昭和34年)に合気道を紹介し、藤平光一に師事させる。そこで榎本は合気道をヒントにして得た打法と呼吸を研究して精神面の強化を図り、打席内で体の力を抜く方法を会得。 翌年には3番打者に戻り、打率.344で首位打者を獲得する活躍を見せ、リーグ5位の66打点も残し、チームのリーグ優勝に貢献。山内一弘・田宮謙次郎・葛城隆雄らと共に「大毎ミサイル打線」の一翼を担った。一方の荒川は、1961年(昭和36年)にチームから放出される形で退団し、現役も引退した。1962年(昭和37年)、監督・川上哲治の下で巨人の一軍打撃コーチに就任。早大の後輩・広岡が犬猿の仲であった川上に頭を下げてくれたため、荒川は毎日OBであったが巨人入りを果たした。川上が荒川を雇った理由は、「その若さで榎本という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみだった。コーチ時代は荒川道場と呼ばれる厳しい指導で選手のプライベートも徹底的に管理した。特に当時プロ3年目にして鳴かず飛ばずの成績が続いていた王には、日本刀を用いた素振り練習を取り入れる等、連日連夜の猛特訓をさせる。中でも「一本足打法」は、王が本塁打を打てる選手になれるよう荒川が提案。片足でバランスを取らなくてはならない為、この打法をマスターするには、並々ならぬ鍛錬が要された。打席に立つ恐怖を覚える程にまで追い込まれた王から片時も離れることなく熱心に指導し続け、その師弟関係が生んだ類稀なる努力が功を奏し、王はレギュラーシーズン通算本塁打868本という驚異的な記録を打ち立て、野球史に名を刻む選手へと成長した。一本足打法は後に駒田徳広らにも伝授しているが、王ほどの効果はなかった。王以外では土井正三・黒江透修・高田繁らを育て、7度のリーグ優勝・日本一に貢献。巨人の第3次黄金時代を支えた。1968年(昭和43年)、阪神タイガースのジーン・バッキーが投げた王への危険球に端を発する乱闘で、荒川はバッキーに殴られて4針も縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折した(バッキー荒川事件)。バッキーはこの怪我が致命傷となり精彩を欠いたことで成績が低迷し、翌年オフに現役を引退している。1969年(昭和44年)、早稲田大学で1番を打っていた養子の尭がプロ入りにあたり、養父が巨人のコーチ、東京六大学野球の常打ち球場明治神宮野球場を本拠地にしている球団がアトムズ(1970年からヤクルトアトムズ)という事で、ドラフト会議前から「巨人・アトムズ以外お断り」と明言。しかし、ドラフト会議では指名順が3番目だった大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)が1位指名。尭は即入団拒否し、その後も拒否を貫く中大洋ファンから脅迫電話や嫌がらせを受け、1970年(昭和45年)1月5日夜には自宅付近を散歩中に熱狂的な大洋ファンとされる二人組の暴漢に襲われた。棍棒状の凶器(一説には野球用バットと言われる)で殴打された尭は緊急入院を余儀なくされ、診断の結果、後頭部および左手中指に亀裂骨折。この事件は荒川事件と呼ばれ、事件の後遺症によって尭のその後の選手生命にまで影響が出た。事件後、尭はアメリカに野球留学。その後、大洋サイドがヤクルトへの移籍を前提とした契約を持ちかけ、次のドラフトで巨人かヤクルトに行ける保証はないと考えた尭はこれを受け入れ、同年10月7日に大洋と契約。12月26日にヤクルトへの移籍が発表された。この尭のプロ入りを期に、公私のけじめをつけるため巨人コーチを勇退した。1973年(昭和48年)、日本鋼管を指導した後、同年のシーズン途中からヤクルトアトムズの一軍打撃コーチに就任。1974年(昭和49年)からは三原脩の後を受けて監督に昇格。コーチ陣に広岡達朗・小森光生・沼澤康一郎と早大の後輩を配し、早大カルテットと称された。1年目は前半戦こそ出遅れたが、後半戦の8月に5試合連続完投勝利を含む6連勝をマークして浮上に成功。13年ぶりのAクラスとなる3位となったが、2年目は4位、3年目は開幕から低迷し、5連敗を喫した。1976年(昭和51年)5月12日、成績不振の責任をとって辞任した。辞任後はフジテレビ・文化放送(1977年 - 1984年)、日本テレビ(1985年 - 1986年)で解説者を務めた。フリーの評論家を務める傍ら、ゴルフリゾート「ライオンゲイン」名誉会長やゴルフ選手のコーチ、野球教室「荒川道場」の主宰や神宮バッティングセンターで少年に打撃指導したりなど幅広く活動した。2016年(平成28年)12月4日、外出先で昼食の蕎麦を食べた後に胸の痛みを訴え、都内の病院に救急搬送。治療を受けたものの、心不全のため東京都内の病院で死去。享年86。この日はプロゴルファーの上田桃子を指導する予定であり、その後は巨人軍OB会に出席予定だった。
日本プロ野球界のスタープレーヤーである王貞治を育てた名コーチ・荒川博。かつて「三振王」とまで揶揄された王に「一本足打法」を教え込み、「世界のホームラン王」と呼ばれるまでに鍛え上げたその功績は計り知れない。早実の後輩で「安打製造機」と呼ばれた榎本喜八をサポートしたことから始まったコーチ人生。その功績を川上哲治に買われ、王貞治のみならず土井正三、黒江透修、高田繁らを育て、V9と呼ばれた読売巨人軍の黄金期を築いた。バッキー荒川事件や養子の荒川事件など、1960年代後半にあらゆる事件の当事者となったが、それを打ち消すほどの名選手を多く育て、球界に大きな貢献をもたらした。晩年も精力的に活動し、少年野球の指導にあたっていた荒川博。突然この世を去った名コーチの墓は、東京都渋谷区の立正寺にある。墓には「荒川家」とあり、下部に墓誌が刻む。戒名は「天球院博譽高達居士」。ちなみに後ろの区画には、荒川の一番弟子である榎本喜八の墓が建立されている。