2019年 04月 21日
岩谷時子(1916~2013)
岩谷 時子(いわたに ときこ)
作詞家
1916年(大正5年)~2013年(平成25年)
1916年(大正5年)、京城府(現在のソウル特別市)に生まれる。本名は、岩谷 トキ子。祖父は京畿道の初代長官だったことから京城で生まれたのだが、時子が生まれた日に退官した。5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。西宮市立浜脇小学校、西宮市立安井小学校、西宮市立西宮高等女学校(現在の西宮市立西宮高等学校)を経て、神戸女学院大学部に進学。学生時代は宝塚歌劇に親しみ、古今東西の詩を愛読していた文学少女で、やがて宝塚歌劇団発行の雑誌に随筆や小説を投稿するようになる。1939年(昭和14年)、神戸女学院大学部英文科を卒業。宝塚歌劇団出版部に就職し、宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。そうした中、偶然宝塚歌劇団編集部にやってきたタカラジェンヌで8歳下の越路吹雪と出会う。当時新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと時子に相談を持ちかけたことがきっかけで2人は意気投合し、気づけば時子は越路の付き人の役割を担うなど、越路の良き相談相手となった。1951年(昭和26年)、越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。小林一三が一人では不安だからと同行させて上京し、東宝文芸部所属になる。以後会社員として働く傍ら越路をサポートし、越路が亡くなるまで約30年にわたり越路の付き人を務めた。1952年(昭和27年)、越路が出演していたシャンソンショー「巴里の唄」の劇中歌として『愛の讃歌』で時子にとって自身初めてとなる訳詞を担当。また、東宝映画「上海の女」で山口淑子が歌う挿入歌『ふるさとのない女』の作詞を担当。以降、マネージャーとして活動する傍ら作詞家としても歩み始め、ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』(1963年/昭和38年)、加山雄三『君といつまでも』(1965年/昭和40年)など数多くのヒット曲を生み出してきた。1964年(昭和39年)、ザ・ピーナッツ『ウナ・セラ・ディ東京』と岸洋子『夜明けのうた』で第6回日本レコード大賞の作詞賞を受賞。1966年(昭和41年)には園まり『逢いたくて逢いたくて』で2度目の第8回日本レコード大賞作詞賞を受賞した。1968年(昭和43年)、ピンキーとキラーズ『恋の季節』 で初のミリオンセラーを記録。1969年(昭和44年)、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』で第11回日本レコード大賞を受賞。作詞家として大きな成功を収めたが、自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えるほど越路吹雪のマネージャーとして強い信頼関係で彼女を支えた。特に1966年(昭和41年)から越路の死去する1980年(昭和55年)まで、劇団四季の演出家である浅利慶太の演出、日本ゼネラルアーツ(浅利の舞台制作会社)の制作により、越路吹雪の日生劇場リサイタルが開催。公演は大きな反響を呼び、1968年(昭和43年)には公演期間は11日間に伸び、1969年(昭和44年)からは空前絶後の約1ヶ月におよぶロングリサイタルとして開催された。1970年代当時、最もチケットの入手が困難なライブ・ステージのひとつともいわれた。時子はリサイタルの直前になると極度の緊張におそわれる越路のために、ステージへ出る際に越路の背中に指で「トラ」と書き、「あなたはトラ、何も怖いものは無い」と暗示をかけてステージに向かわせた。1979年(昭和54年)、ミュージカルに於ける訳詞の成果に対し第5回菊田一夫演劇賞を受賞。1980年(昭和55年)、越路が胃癌で入院。もう一度舞台に立たせたいと強く願っていた時子は越路から睡眠薬とタバコを取り上げることに必死だった。それにもかかわらず、越路の夫の内藤法美は妻である越路が病床でタバコを吸っていても大目に見ていた。「いまの越路吹雪には厳しい愛が必要だ」と考えていた岩谷にとって、これは許しがたいことであり、3度目の入院を前に時子は越路のもとを訪れ「内藤さん、あなた(越路に)甘いんじゃないの。あなたもあなたよ。睡眠薬もタバコもやめなけりゃあ、胃の痛みは治らないって、お医者さまもおっしゃったでしょう。もし、あなたが私のいうこと守れなかったら、私はあなたの仕事からいっさい手をひかせてもらうわ」と心を鬼にして一対一で説得し、その日から越路は睡眠薬とタバコをやめたという。しかし、同年11月7日に越路は56歳の若さで死去。追い打ちをかけるように越路の兄弟から金銭的な疑いをかけられ、貯金通帳や確定申告書まで提出して身の潔白を主張。体重は35キロにまで激減した。その後、ミュージカルの訳詞に力を注ぎ、稽古に立ち会っては訳詞のやり直しをし続け、「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」「王様と私」などを手がけた。また、ミュージカル『ミス・サイゴン』の訳詞を手がけたことがきっかけで、同作品に主演した本田美奈子と親交を深める。本田の才能を「越路の再来」と高く評価し、数多くの詞を提供した。1993年(平成5年)、勲四等瑞宝章を受章。2009年(平成21年)、公益財団法人 岩谷時子音楽文化振興財団を設立。同年、文化功労者に選出。2010年(平成22年)、岩谷時子賞を創設。この頃より体調を崩しがちになり、晩年は体力の衰えから車椅子での生活を余儀なくされていた。2013年(平成25年)10月25日午後3時10分、肺炎のため東京都内の病院で死去。享年97。
戦後初の女性作詞家として、シャンソン、ポップス、歌謡曲からミュージカルまで幅広い分野で活躍した岩谷時子。彼女は歌謡曲全盛の時代に活躍した安井かずみ、有馬三恵子、山口洋子といった女性作詞家の草分け的存在であった。また、専属作家がまだ多い時代にフリーとして活躍。それまで七五調が主流だった歌謡曲に、自然な会話を思わせる綺麗な日本語の言葉や言い回しを持ち込むなど、岩谷時子の登場は歌謡界に新風を巻き起こした。彼女の凄いところは、あの穏やかそうな人柄からは想像もつかない官能的な表現が多いところであり、『ベッドで煙草を吸わないで』や『いいじゃないの幸せならば』はその最たる作品である。かと思えば『これが青春だ』のような若さあふれる爽やかなナンバーを書き、『男の子女の子』みたいなアイドルソングも手がける。まさに七色変化の作詞家だった。そんな才能が有りながらも「私は越路吹雪のマネージャーです」が口癖だった岩谷時子。すべてを越路に捧げた女流詩人の墓は、東京都目黒区の祐天寺にある。墓には「岩谷家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「詞玉院超世時空大姉」。