2019年 04月 21日
沖雅也(1952~1983)
沖 雅也(おき まさや)
俳優
1952年(昭和27年)~1983年(昭和58年)
1952年(昭和27年)、大分県別府市に生まれる。本名は、日景 城児(ひかげ じょうじ)。出生名は、楠 城児(くすのき じょうじ)。父は旧制高等小学校出の石油卸売業、祖父は東京帝国大学医学部出の医師で大病院経営という裕福な家庭に生まれる。しかし、父親の事業失敗のために大分市に転居。その後も市内を転々とする生活を送った。1966年(昭和41年)、両親が離婚。父に付くも、家庭不和により、1968年(昭和43年)1月4日、中学校の卒業前に家出。10万円の全財産とバッグ一つで上京する。当日はホテルニューオータニへ宿泊し、翌日から氏名と年齢を偽って住み込みで中華そば屋の店員やカステラ工場の配送員の助手など職を転々とし、最後はスナックのバーテンダーをしていた。その後、客からスカウトされてファッション誌のモデルになるも、単発的な仕事だったため、スナック勤めを続けながら業務をこなしていたが、食う物にも困る程生活が苦しかった。1968年(昭和43年)、オスカープロモーション設立前の古賀誠一にスカウトされ、古賀が沖を日活関係者に紹介し『ある少女の告白・純潔』で銀幕デビュー。芸名の「沖雅也」の「雅」は当時の日活社長の堀雅彦の一字から名付けられた。このとき、大分市の西鉄グランドホテルで佐藤文生代議士や大分市長らが出席してレセプションが開かれ、この席上で王子中学校の校長が沖に中学の卒業証書を手渡した。その後は高校の通信教育で卒業している。1969年(昭和44年)、エランドール新人賞を受賞。その後は数々の日活作品に助演するも、大きな役には恵まれずにいた。1971年(昭和46年)、映画『八月の濡れた砂』で主役に抜擢。しかし、撮影開始直後にオートバイ事故のケガで降板という不運に見舞われた。同年、テレビドラマ『さぼてんとマシュマロ』の主演に抜擢。このドラマで人気を博し、その後『金メダルへのターン!』(フジテレビ)、『キイハンター』(TBS)にセミレギュラー出演するなど、気鋭の若手として注目を浴びた。初期はアイドル的な人気だったが、1972年(昭和47年)に松竹へ移籍してから徐々に大人の役者への脱皮を試みる時期となった。1973年(昭和48年)、必殺シリーズ(朝日放送)第2作『必殺仕置人』の棺桶の錠役に抜擢。山崎努、藤田まことらとの共演で注目され、2年後のシリーズ第6作『必殺仕置屋稼業』にもレギュラー出演。沖は役に入れ込み、棺桶の錠とはガラリと印象の変わった冷徹な殺し屋・市松を演じた。その間の1974年(昭和49年)にはNHK金曜時代劇『ふりむくな鶴吉』の主演にも抜擢されているなど、この時期は時代劇での活躍が目立った。1975年(昭和50年)、実父の死去を受け、所属事務所の社長であった日景忠男と養子縁組を行う。日景は、15歳で家出同然に上京して職を転々としながら荒んだ生活を続けていた沖を公私に渡って面倒を見続けており、沖は日景城児となった。1976年(昭和51年)、必殺仕置屋稼業を見て沖の演技に注目した日本テレビのプロデューサー岡田晋吉により、『太陽にほえろ!』のレギュラーとして城北署から七曲署に転勤した滝隆一(スコッチ刑事)役として出演。勝野洋演じる殉職したテキサス刑事の後任として登場し、沖本人の希望により半年間契約で出演し、山田署へ転勤という形で降板したが、同作で爆発的な人気を得ることとなる。1978年(昭和53年)には同じ岡田晋吉企画の刑事アクションドラマ『大追跡』、『姿三四郎』で準主役を務める。1979年(昭和54年)、アクションコメディドラマ『俺たちは天使だ!』に主演。本来の明るいキャラクターを前面に出し、陽気で伊達男のキャップこと主人公・麻生雅人役を演じて人気を博した。一方、この時期には脇役ながら東宝映画への出演も多く、市川崑、岡本喜八ら巨匠監督の起用も受けて映画俳優としての将来性も期待されていた。1980年(昭和55年)、『太陽にほえろ!』と同じ曜日と時間に放送されていたTBSの『3年B組金八先生』に押され、視聴率が低下してきた時に、視聴者たちから番組宛に「何とか沖を復帰させて欲しい」との声が多数届き『太陽にほえろ!』に復帰。沖は再登場に乗り気ではなかったが、東宝との関係、そして岡田プロデューサーの依頼であり、再びレギュラーを務めることとなった。1981年(昭和56年)、大島渚監督『戦場のメリークリスマス』においてヨノイ役の有力な最終候補者であったが、撮影スケジュールの変更と沖の精神的病により候補者から外れることを余儀なくされ、『八月の濡れた砂』に続いてまたしても映画での大役を逃した。同年には『江戸の朝焼け』でも主演を務めが、他にもレギュラー番組をいくつか抱える過密スケジュールの中、沖は精神的な不安定度が高くなり、同年4月11日に東名高速道路でキャデラックを運転中に自動車事故を起こし、足首の軽い捻挫と躁鬱病(躁うつ病)と診断され2週間入院した。退院後も精神安定剤を服用しながら同年6月1日に現場に復帰したが、肝臓炎の発症や薬の副作用によるむくみや肥満などから躁鬱病が悪化。復帰から3ヶ月後に再び長期間の休養を余儀なくされ、本来はもう少し長く出演するはずであったが『太陽にほえろ!』も最終的には病死という形で、1982年(昭和57年)1月に番組から降板することになった。また、日本テレビで放送された『大追跡』の後日談とも言える『プロハンター』への出演を打診されていたが、スケジュールを空けることが出来ず出演はならなかった。6月には沖雅也 特別公演「恋剣法・若さま春秋」で初座長を務めたが、1983年(昭和58年)6月28日、大阪での舞台公演が控える中、仕事を終えチェックインしていた東京都新宿区西新宿の京王プラザホテルにて、「おやじ 涅槃で 待つ」という遺書を残し、本館最上階(47階バルコニー・高さ170メートル)より警備員の制止を振り切って飛び降り、ビル7階の屋上に落ちて全身を強く打ち即死した。享年31。沖は飛び降り自殺をした際、「蒲田行進曲」原作者で演技指導を受けたつかこうへいの名でホテルにチェックインしており、遺書にはつかの名前を使ったこと・京王プラザホテルに対し自殺場所としたことをそれぞれ詫びる文面があった。ホテルの部屋備え付けのメモに遺書を残したあと屋上へ向かい、まずは一服し、警備員が目を離した隙にフェンスをよじ登った。気が付いた警備員が「危ない!」と声を掛けた時には既にフェンスを乗り越える寸前で間に合わなかった。警備員は自殺直前の沖の様子について、沖だとはわからなかったと証言している。沖の突然の死は芸能界や世間に大きな衝撃を与え、自殺直後の6月30日に密葬、1ヵ月後に事務所主催の葬儀・告別式が行われ、つかが葬儀委員長を務めた。密葬と葬儀には勝野洋、ロミ・山田、美輪明宏、二谷英明、柴田恭兵、坂口良子、渡辺美佐子らが弔問に訪れ、柴田、坂口らが弔辞を読んだ。
1970年代のテレビ界が生んだ美形のスター俳優・沖雅也。「太陽にほえろ!」でクールな刑事を演じて爆発的な人気を博すと、続く「俺たちは天使だ!」では陽気なキザ男をコミカルに演じ、お茶の間の人気者となった。そんな人気絶頂の最中、京王プラザホテルの本館47階から後ろ向きに飛び降り自殺。残した遺書の一節「おやじ 涅槃で待っている」は大きな話題となった。遺書にあった「おやじ」こと日景忠男の存在感も強烈で、沖死亡時の記者会見で同性愛者と言う関係が取り沙汰されて放った一言「もういいじゃないですか!」は流行語となった。そんな彼も2015年にひっそりと沖雅也の待つ涅槃へと旅立った。沖雅也の墓は、東京都港区の長谷寺にある。墓には「日景家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「本然院雅道誠実居士」