2019年 04月 20日
可愛かずみ(1964~1997)
可愛 かずみ(かわい かずみ)
タレント
1964年(昭和39年)~1997年(平成9年)
1964年(昭和39年)、東京都杉並区高円寺に生まれる。本名は、久我 知子(くが ともこ)。幼少の頃に両親が離婚し、1年ほど母親と住んだ後に父親に引き取られる。子供の頃は両親の離婚と父親の仕事で転校を繰り返した。中学時代はバレーボール部に所属。その後、都内の女子高に進学。高校時代はレストランでアルバイトをしていた。芸能界にはあまり興味はなく、元々は美容師になるつもりだったが、高校在学中にスカウトを受けてモデルクラブに登録。日活の宣伝用ポスターの仕事が舞い込み引き受けるが、可愛は脱がないといけない仕事だと知らなかった。「話が違う」と一旦は断ろうとするが、日活の担当者が怒られているのを見て同情してしまい、最終的に引き受ける。この時に渡辺護監督の目に止まり、1982年(昭和57年)日活ロマンポルノ映画『セーラー服色情飼育』でデビュー。「可愛かずみ」の芸名は渡辺監督によって命名された。このにっかつロマンポルノの主演の話がきたとき「考えさせてほしい」と言ったが、モデル事務所から「次のステップに繋がる」という勧めもあり、きわどいラブシーンをしないという条件で承諾したロマンポルノ映画出演はこの1作のみだったが、幼さが残るあどけない顔立ちと抜群のスタイルで注目を浴びる。続いて、映画『夜をぶっとばせ』、シブがき隊主演の『ヘッドフォン・ララバイ』に出演し、その後すぐにグラビアアイドルとして人気を博す。グラビア時代の可愛の人気は絶大で、毎週特集を組んでいた雑誌もあり、特に「アイドル」「光の中の少女」はプレミア写真集として知られている。また、可愛のファンだったという芸能人は多く、ダウンタウンの松本人志、とんねるずの石橋貴明、高嶋政宏などがテレビで公表している。1983年(昭和58年)には脱ぐ仕事をしたくないという理由で、オフィス・アンからマーカスに所属事務所を移籍。以降はテレビのバラエティーやドラマで活躍。特にバラエティ番組には多数出演しており、『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」のコーナーで中森明菜のものまねをしていた。また、歌番組のアシスタントやバラエティー番組での活躍も増え、人気タレントの地位を確立していった。1984年(昭和59年)、「春感ムスメ」で歌手としてもデビュー。その後「天使のデザート」「メディテーション」のアルバムもリリースした。同年、深夜帯ドラマ『トライアングル・ブルー』(テレビ朝日)に出演。この作品で女優としてもメジャーになっていく。1988年(昭和63年)からは片岡鶴太郎主演の『季節はずれの海岸物語』シリーズで、鶴太郎がマスターをしていた喫茶店を手伝う新井徳子(とっこちゃん)という役柄を演じた。1992年(平成4年)、実力派女優として認められ、日活80周年記念作品『女猫〜美しき復讐者〜』の主役に抜擢。この頃、チャームポイントだった八重歯を抜いている。1995年(平成7年)、当時ヤクルトスワローズに在籍していた川崎憲次郎との交際が判明。川崎は学生時代から可愛の熱烈なファンで、6歳の年の差はあったが、川崎はマスコミに対して交際を宣言。結婚間近と噂されるほど順調だったが、川崎の故障から二人の関係に擦れ違いが生じ、その後川崎が「怪我の治療に専念したい」という理由から破局する。1996年(平成8年)3月、志村けんとのツーショット写真を週刊誌に撮られる。この時期から過度の精神的ストレスにより、過呼吸や手足のしびれなどの症状を引き起こす「過換気症候群」を発症。やがて抗うつ剤や精神安定剤などの薬物に依存するなど精神的に追い込まれ、12月にはリストカットの自殺を図る。一命は取り留めたものの、1997年(平成9年)1月に再びリストカットの自殺、5月9日午前中に手首を切るなど自殺未遂を繰り返す。3度目の自殺時のためらい傷は3箇所に及んでいたという。縫合後、食事で出されたドリアを完食しており、周囲の者には落ち着きを取り戻したように見えたという。しかし、午後6時30分頃、留守番の女性に「咳がでるから病院に行く」と言って出かけ、午後7時10分頃、川崎が住んでいた目黒区駒場のマンション7階から飛び降り自殺。午後7時14分頃、マンションの前に人が倒れていると通報されるが、救急車が来た時には既に心肺停止状態であった。午後7時59分、搬送された新宿の東京医科大学病院で死亡が確認された。享年32。当初は事故としても調べられたが、すぐに自殺と断定される。飛び降りたマンションの共同廊下には、揃えられた靴と免許証やカード、そして現金約10万円が入ったシャネルの財布が置かれていた。2階のエントランスに1度落下したらしく、2階部分には、落下痕と飛び降りた際にかけていたと思われるサングラスがあった。目撃者であるマンション1階のコンビニ店員の証言によると、可愛は青と白のストライプのシャツを着ており、自殺したとは思えないほど安らかな顔をしていたという。当時は遺書が見つかっていなかったこともあり様々な憶測を呼んだが、父親宛のメモを残していたことが後年判明した。遺体が安置された東京医科大学病院には、川上麻衣子、岡本かおり、など、多くの友人が駆けつけ付き添っていた。通夜でも渡辺美奈代や渡辺めぐみなど、多くの友人が駆けつけ「もっと相談に乗っていれば良かった」「もっと頻繁に気持ちを確かめ合えば、こんなことには…」と口々に漏らし、涙に濡れた。また通夜には生き別れになっていた母親も参列し、可愛が亡くなった後、再会を果たしている。告別式では2年半ほど前に撮られた写真が遺影として使われた。父親が「人生で一番むなしい日」、所属事務所社長が「彼女が思っているよりもずっと彼女は愛されていた」と語っている。告別式の様子を放送したワイドショーでは芸能リポーターが「私の立場で言っていいのかは分かりませんが、もうそっとしてあげたいですね」と言っており、可愛の人柄が偲ばれるものであった。亡くなった翌日の5月10日、可愛は都内の自動車販売会社を経営する実業家と正式に婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが判明する。棺には挙式で着用する予定だった白いウェディングドレスがかけられた。
マルチタレントとして活躍した可愛かずみ。日活ロマンポルノで芸能界入りという特殊な経歴を持つ彼女は、その愛らしいルックスからグラビアで一時代を築き、『ポルノ女優』というレッテルを払拭すべくあらゆる仕事に挑戦し、見事に演技派女優としての地位を確立した。しかし、そうした努力が自身を壊してしまったのか、川崎憲次郎との破局から壊れていき、果ては自殺という悲しい最期を迎えてしまった。いつも明るく天真爛漫だった彼女に似つかわしくないその結末には、没後20年経った今でも悲しい感情を抱いてしまう。いま彼女が生きていたらば、どのような活躍を見せてくれたのだろうか。可愛かずみの墓は、東京都港区の光善寺にある。墓には「南無阿彌陀佛」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「喜愛院釋尼知暁」