2019年 04月 15日
安藤鶴夫(1908~1969)
安藤 鶴夫(あんどう つるお)
演芸評論家
1908年(明治41年)~1969年(昭和44年)
1908年(明治41年)、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として、東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に生まれる。本名は、花島 鶴夫(はなしま つるお)。1934年(昭和9年)、法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。1939年(昭和14年)、子供の頃から親しんだ都新聞社へ途中入社。当初は調査部に所属しながら演芸面に落語研究会、東宝名人会、文楽の東京興行を批評する記事を書き、翌年に文化部へ移った。1946年(昭和21年)、『苦楽』誌に聞書「落語鑑賞」(8代目桂文楽の噺、10話)を連載して評判となる。社外からの執筆要請が増えたことが上層部から問題とされ「真綿で首の、岩藤流のいやがらせをされ」たことから、1947年(昭和22年)9月に退社。スクリーン・ステージ新聞(キネマ旬報社)に移った。1949年(昭和24年)、『東宝』誌に掲載された4代目柳家小さんの芸談「小さん・聞書」などを併せて『落語鑑賞』(苦楽社)が本となり、そこから寄席評論家としての評価を確立。特に文楽の話芸を活字で再現して高く評価された。1950年(昭和25年)からは三越名人会を、1953年(昭和28年)から三越落語会を主宰。新作落語が人気を博していた戦後に古典落語を再評価し、それまで主に寄席で聞くものだった落語をホール落語という新しい形を定着させ、演芸評論の重鎮となった。幅広い交友関係をもち、各種芸能に造詣が深く、落語・講談等の寄席評論家としては古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒であり、戦後の落語界に大きな影響を与えた。1959年(昭和34年)、急逝した湯浅喜久治の遺志を継ぎ、東横落語会を引き継いだ。その後、久保田万太郎に傾倒して小説も手がけ、1963年(昭和38年)には講談に生命を賭けた講釈師をめぐる下町の人情の世界を描く『巷談本牧亭』で第50回直木賞を受賞した。晩年は糖尿病で健康を害し、1969年(昭和44年)9月9日午後6時50分、糖尿病性昏睡のため東京都文京区の東京都立駒込病院で死去。享年60。没後、勲四等旭日小授章を追贈された。
通称「安鶴(アンツル)」と呼ばれた安藤鶴夫。いがぐり頭にベレー帽、太い黒縁めがねがトレードマークのアンツルは、古典落語を崇拝し、寄席芸を愛した。一方で、物事への感情移入が激しく、「カンドウスルオ」なる異名を付けられるほど、好き嫌いの激しさによって多くの敵を作った。自身の好む芸人を礼賛する反面、自身の好まない落語家には辛辣で、3代目三遊亭金馬を「金馬は乞食芸だ」、七代目立川談志を「天狗になっている」「調子にのりすぎている」と批判し続けた。そのあり方から、安藤に良くない印象を持つ者は芸人・関係者・ファンに至るまで数多く存在し、永六輔が安藤の評伝が没後4年を経ても出版されないことを不思議に思い、自身が書こうとしたところ、良く書くのかそれとも悪く書くのか、と各方面から真意を聞かれたほどだった。戦後を代表する演芸評論家として正岡容と並び称されたものの、賞賛と罵倒の両面評価を併せ持つ安藤鶴夫の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には戒名の「順徳院鶴翁道寿居士」が刻まれ、右側面と墓所入口に墓誌がある。