2019年 04月 06日
松尾和子(1935~1992)
松尾 和子(まつお かずこ)
歌手
1935年(昭和10年)~1992年(平成4年)
1935年(昭和10年)、東京市蒲田区(現在の東京都大田区蒲田)に生まれる。少女期は箱根で育ち、箱根のホテルに姉が勤めていた縁でジャズに親しんだ生活を送る。1951年(昭和26年)、箱根明星中学校を卒業。ジャズに惹かれていたことと家族の生活のために上京して歌手となり、レイモンド・コンデのバンド、ゲイ・セプテットの専属歌手のひとりとなる。進駐軍のキャンプやナイトクラブなどで歌ううち、徐々に人気が上がっていき、やがて、力道山が経営していた赤坂のクラブ・リキの専属歌手となった。1958年(昭和33年)、同クラブでフランク永井に認められスカウトされる。吉田正を紹介され、吉田の口利きでビクターに入社する。1959年(昭和34年)、『グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ』でレコードデビュー。『グッド・ナイト』は和田弘とマヒナスターズ、『東京ナイト・クラブ』はフランク永井との共唱であり、当時はベテランや人気歌手でも片面は他の歌手である場合が多く、ビクター及び吉田正の期待のほどが窺える。同年末、第2弾として発売した『誰よりも君を愛す』(マヒナとの共唱)が大ヒットし、それにつられる形でデビュー曲もヒット。1960年(昭和35年)にはソロで吹き込んだ『再会』がヒット。同年末に『誰よりも君を愛す』で第2回レコード大賞を受賞した。松尾の名は一躍スターダムへとのし上がり、後にムード歌謡の女王と称されるようになった。その後も『銀座ブルース』『お座敷小唄』とコンスタントにヒットを出した。私生活では、歌手デビュー前の1958年(昭和33年)にバンド奏者の大野喬と結婚。1963年(昭和38年)には長男を授かるが、1966年(昭和41年)に夫と離婚。この辺りから人気が下降していく。しかし、1971年(昭和46年)頃に大学生を中心とした熟女ブームのようなものが巻き起こり、五月みどりらと共に人気が再燃。この時期以降タレントしての活動が活発化し、1980年代には『ライオンのいただきます』(フジテレビ)、『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ)のバラエティー/情報番組のコメンテーターとして大活躍。女優としても『池中玄太80キロ』(日本テレビ)などに出演した。1991年(平成3年)、息子が覚せい剤取締法違反で逮捕され、懲役2年の実刑判決を受ける。このことから松尾はマスメディアから厳しく批判され、芸能活動の大幅自粛を余儀なくされる。折からブティック経営にも失敗し、負債は8億円ともいわれた。このことに思い悩み、松尾は睡眠薬を多量服用し、自殺未遂を起こすまでに追い込まれていた。1992年(平成4年)9月25日午前3時頃、自宅の階段から転落して頭部を強打。大きな物音に目を覚ました甥が駆けつけると、階段下で寝間着姿の松尾が横たわっており、助け起こされた松尾は「よく落ちるからね」と笑いながら答え、「なんでもない、大丈夫」と無事であることを主張して2階の寝室に戻った。心配した甥が1時間後に部屋をのぞくと寝息を立てていたが、午後1時過ぎにベッドで寝間着姿のままあお向けに硬直して倒れている姿を起こしにきた家事手伝いが見つけた。通報を受け、救急車と検視官3人、警察官5人が急行したが、既に心臓も停止しており死班が出ていた。4時半には大塚の監察医務院に向かい、行政解剖を受けた。死因は階段から落ちたときに頭部を強打した際の内出血による右硬膜下血腫および脳圧迫のためと断定された。享年57。
ハスキーボイスで妖艶たっぷりに聴かせてくれたムード歌謡の女王・松尾和子。作曲家・吉田正の門下生として、フランク永井と共にムード歌謡というジャンルを築き上げた昭和歌謡を代表するスター歌手の一人である。しかし、晩年は息子の不祥事、事業の失敗、自殺未遂と不幸が続き、その度にマスコミから袋叩きされることが多くて非常に不憫だった。その最中の事故死はさぞ本人も無念であっただろう。全ての元凶となった息子も2011年に48歳で病死し、今は母と共に同じ墓地で眠っている。57年の流転の生涯を歩んだ松尾和子の墓は、東京都杉並区の西照寺にある。墓には「松尾家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「妙樂院皎月和光大姉」。