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ショパン猪狩(1929~2005)

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ショパン猪狩(しょぱん いがり)

コメディアン
1929年(昭和4年)~2005年(平成17年)


1929年(昭和4年)、東京都目黒区に生まれる。本名は、猪狩 誠二郎(いがり せいじろう)。 1942年(昭和17年)、日果区碑尋常高等小学校を卒業。東京京浜運河埋立会社に給仕として入社。翌年には品川区菅原電気会社の機械工となるが、1945年(昭和20年)の敗戦で会社が解散。病身の父母と生きる為に、生活協同組合員、文房具販売、自転車組立工、テント修理販売、中華料理調理人と様々な職を転々とする。1950年(昭和25年)、兄・パン猪狩主宰のトキワ楽団に入団。連合軍ベースキャンプの慰問団として、主に北海道、東北を巡業した。1948年(昭和23年)、兄とともに三鷹市に創設した道場で、妹を含めた女性数人に日本初の女子プロレスの指導を行う。また、進駐軍キャンプでのコミックレスリング&ボクシングショーで人気を得る。1950年(昭和25年)、アメリカの女子プロレスをヒントに妹の猪狩定子、田山勝美を特訓し、ガーターベルトを取り合う「ガーター争奪戦」を開始。1955年(昭和30年)には日本初といわれる女子プロレス団体「日本女子プロレスリング」を創設。リングアナを務めながら興行師として成功した。1957年(昭和32年)、榎本健一の一座にいた鯉口潤一と東京コミック・ブラザースを結成。ターバンを巻いたアラビア風衣装で縦笛を吹きながら“レッドスネーク・カモン!”とヘビのぬいぐるみを呼び出すコントで一世を風靡したが、後に鯉口が弟子の八坂一夫、谷幸一を連れて解散。メンバーを新たに東京コミックショウとして活動を再開したのち、ヘビの芸を売物に妻の千重子と二人でキャバレーなどで活躍した。1993年(平成5年)、ヘビ役の妻が健康上の理由から舞台を降りたため解散。その後は、東京コミックショウの名を残したまま一人で活動を続けた。晩年は糖尿病の影響で目を患い、限られたテレビでの仕事に減少させて活動していた。2005年(平成17年)午前0時17分、心不全のため東京都目黒区の病院で死去。享年76。


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アラブ人風の派手な衣装で「ヘェ〜イ!!レッドスネェ〜ク!!!カモォ〜ン!!」と言いつつ笛を吹き、3つの壷からカラフルな蛇の縫いぐるみをニョロニョロと登場させる芸「三蛇調教」で人気を博したショパン猪狩。ゼンジー北京と並ぶ奇妙な格好をした奇術師の代表的存在であり、昭和の演芸番組にはお馴染みの顔だった。笑点の演芸コーナーで初めて見たときの衝撃は忘れられなく、小学校の音楽の時間でリコーダーを適当に吹いては彼のモノマネをよくやったものだった。晩年は糖尿病と妻の病気による引退の影響であまり活動ができなかったショパン猪狩。彼の墓は、東京都杉並区の宗源寺にある。墓には「吉田 猪狩家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。左側にはショパン猪狩の座右の銘であった「笑いとは心の財産なり」と彫られた碑が建つ。戒名は「笑生院法冨日?居士」

by oku-taka | 2019-04-06 18:45 | コメディアン | Comments(0)