2019年 04月 06日
サトウハチロー(1903~1973)
サトウ ハチロー
詩人・作詞家
1903年(明治36年)~1973年(昭和48年)
1903年(明治36年)、作家の佐藤紅緑の長男として東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町(現在の東京都新宿区市谷薬王寺町)に生まれる。本名は、佐藤 八郎。中学に入学後、父が舞台女優の三笠万里子と同棲するようになり、母と離婚。父への反発から中学を落第し、退校、勘当、留置場入りを重ねる。旧制早稲田中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)をはじめ8つの中学を転々とした後、父から勘当されて感化院のあった小笠原諸島の父島に行かされる。そこで父の弟子であった詩人の福士幸次郎と出会い、生活を共にしたことで影響を受ける。1919年(大正8年)、福士の紹介により西條八十に弟子入り。童謡を作り始め、数々の雑誌や読売新聞などに掲載される。一方で今東光などが参加した同人誌『文党』や、草野心平や宮沢賢治などの同人誌『銅鑼』に参加する。1924年(大正13年)頃からは群馬県に佐藤八郎という同姓同名の詩人がいたことがきっかけで「サトウハチロー」として活動。1926年(大正15年)、処女詩集『爪色の雨』を出版。詩人としての地位を確立する。1930年代からは童謡や詩だけにとどまらず、ユーモア作家、軽演劇作者、映画の主題歌なども盛んに執筆する。また、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、清水士郎、清水洋一郎、並木せんざ、江川真夫、熱田房夫、倉仲佳人、倉仲房雄、など多くの別名を用いて活動した。1938年(昭和13年)、日本コロムビアと専属契約を交わす。1945年(昭和20年)、戦後初めてとなる映画『そよかぜ』の主題歌・挿入歌「リンゴの唄」を作詞。並木路子の歌により大流行し、連合国軍占領下の日本を象徴する歌となった。1946年(昭和21年)、東京タイムズでエッセイ「見たり聞いたりためしたり」の連載を始め、およそ10年間にわたり連載された。また、NHKのラジオ番組『話の泉』のレギュラーとなり、18年間出演した。一方で、藤田圭雄、野上彰、菊田一夫らに呼びかけ「山小屋」と呼ばれるサトウハチロー宅の書庫に集う「木曜会」を結成。当初は日本文化について論じあっていた会合が、やがて「ウタの教室」という詩の勉強会を主催するようになっていき、作品発表の場として『木曜手帖』が設けられ、詩や童謡における新人養成に大きな役割を果たした。1951年(昭和26年)、NHKのラジオドラマ『ジロリンタン物語』の原作を執筆。1953年(昭和28年)、童謡集『叱られ坊主』を出版。翌年には第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞。以後は童謡の詩作に専念し、「お山の杉の子」の改作やテレビ番組のタイトル詩『おかあさん』などで人々に親しまれた。1962年(昭和37年)、「ちいさい秋みつけた」でレコード大賞童謡賞を受賞。1963年(昭和38年)、NHK放送文化賞を受賞。1966年(昭和41年)、紫綬褒章を受章。1967年(昭和42年)、日本作詩家協会の会長に就任。1969年(昭和44年)、日本童謡協会を創設し、会長に就任。1971年(昭和46年)、日本音楽著作権協会の会長に就任。1973年(昭和48年)、勲三等瑞宝章を受章。同年11月13日、心臓発作により聖路加国際病院で死去。享年70。
昭和のを代表する詩人の一人、サトウハチロー。母親への想いなどをうたった叙情的な作風で知られ、2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関する詩であった。しかし、何といっても彼の残した業績で大きいのは、戦後初めての映画『そよかぜ』の挿入歌として作詞した「リンゴの唄」であろう。この歌は「青い山脈」と並び、荒廃した日本にとって戦後復興の象徴ともいうべき歌となった。放蕩、奇行など自由奔放な生活を送りながら詩を作り続けたサトウハチローの墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には「ふたりでみるとすべてのものは美しくみえる」の直筆とサトウハチローの名が彫られており、背面に墓誌が刻まれている。墓所入口には「かァさんと久」「るり子」と彫られた白い御影石が設置されている。前者の久は、19歳で婚約者と心中したハチローの4番目の弟であり、後者のるり子は先妻との子供三人を育ててくれた2番目の妻であり、おそらくこの二人の墓であると予想する。