2019年 04月 06日
古賀忠道(1903~1986)
古賀 忠道(こが ただみち)
上野動物園園長
1903年(明治36年)~1986年(昭和61年)
1903年(明治36年)、佐賀県小城郡小城町に生まれる。1928年(昭和3年)、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。東京市公園局に就職し、上野恩賜公園動物園(上野動物園の前身)に勤務する。当時の動物園は、不衛生、日光も当らない狭い獣舎のものが多かったことから、古賀は真っ先に獣舎の改良に取り組む。1932年(昭和7年)には狭い檻に入れられてノイローゼになりやすかった猿のため、園内に猿山を創設。同時に動物病院も開設した。1936年(昭和11年)7月25日早朝、恩賜上野動物園で飼育されていたクロヒョウのメス1頭が脱走。クロヒョウは約12時間半後に捕獲され、特段の被害もなかったが、この事件は当時の人々に大きな衝撃を与えた。クロヒョウ脱走事件からわずか5日後の7月30日、今度はシカの脱走事件が発生。連続する脱走事件の責任を取って、当時上野動物園の最高責任者である主任技師職を務めていた古賀は進退伺を提出。免職にはならなかったものの、10月31日付で「市則第八十九条ニ依リ」過怠金5円の行政処分を受けた。こうした事件を受け、動物園に園長職がないことが見直される契機となり、1937年(昭和12年)園長制度が設立。古賀は「初代園長」に就任した。しかし、1941年(昭和16年)予備役陸軍獣医少尉として応召。1945年(昭和20年)の復員後は、荒れた動物園を復旧するためにかぼちゃの種と入園券を交換することで動物たちのエサ不足を解消したり、戦時下に行われた「戦時猛獣処分」により少なくなった動物たちの代わりに園内でミニ劇場を作り、動物にかかわる映画を上映した「かもしか座」の開設などを実施。1948年(昭和23年)には子供動物園の開園、おサル電車の開通など、動物と人間の係わり合いを高める様々な試みを展開した。1949年(昭和24年)、インドのネール首相よりアジアゾウの「インディラ」が贈られ、翌年からインディラを中心とした移動動物園を実施する。1962年(昭和37年)、動物園創立80年記念行事を最後に退職。同年、藍綬褒章を受章。退職後は、財団法人東京動物園協会理事長に就任するとともに、国際自然保護連合(IUCN)日本委員会の委員長をつとめ、また、全国の動物園に呼びかけて野生動物のための「パンダの募金箱」を設置。野生・動物保護に全力を尽くした。一方で、MBSテレビ『野生の王国』の監修も務め、中期にはナレーターを務めた八木治郎との対談によって動物を解説した。1968年(昭和43年)、世界野生生物基金(WWF)日本委員会を設立。1974年(昭和49年)、勲二等瑞宝章を受章。1982年(昭和57年)、世界野生生物基金日本委員会(WWFJ)の会長に就任。1986年(昭和61年)4月25日、死去。享年82。翌年には、動物園および水族館での動物繁殖において特に功績のあった業績に授与される「古賀賞」が設けられた。
上野動物園の初代園長として親しまれた古賀忠道。動物と人間の係わり合いを高めるべく様々な試みを生み出し、生涯にわたり魅力的な動物園作りを目指してきた。古賀が考案したアイディアの多くは、今日の動物園に受け継がれている。「ZOO IS THEPEACE」の言葉を掲げ、上野動物園を世界有数の動物園にまで押し上げた古賀忠道の墓は、東京都台東区の宗善寺にある。墓には「南無阿彌陀佛」とあり、左側に古賀の略歴が刻まれた墓誌が建つ。戒名は「照護院釈誠道居士」。