2019年 03月 21日
柴田錬三郎(1917~1978)

柴田 錬三郎(しばた れんざぶろう)
作家
1917年(大正6年)~1978年(昭和53年)
1917年(大正6年)、岡山県邑久郡鶴山村(現在の備前市)に生まれる。本名は、齋藤 錬三郎(さいとう れんざぶろう)。旧姓は柴田。1929年(昭和4年)、鶴山尋常小学校を卒業し、旧制岡山県第二岡山中学校に進学。校友誌に詩や短篇を発表する。親の薦めもあり、始めは医学部に進学することを考え、上京して慶應義塾大学医学部予科を受験して入学したが、半年後に文学部予科へ移る。在学中は魯迅に傾倒する一方、キリシタンの知識を蓄積。慶應義塾大学予科3学年の時に、『十円紙幣』を君尾哲三のペンネームで『三田文學』に発表する。1940年(昭和15年)、庄内藩の齋藤家の出身である齋藤栄子(清河八郎の妹・辰の孫)と結婚。齋藤家の婿養子となり、齋藤錬三郎と名乗る。同年、慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業。内国貯金銀行(現在のりそな銀行の前身)に入行したが、3か月で辞職。退職後は「泰東書道院」が主宰していた月刊誌『書道』の編集部に就職し、日本出版協会に勤める。1942年(昭和17年)、召集され、相模原第89重砲連隊に入営。3週間の基礎訓練を終えたのちに、医学部に在籍していたことから衛生兵となる。相模原陸軍病院に配属されたのち、横須賀陸軍病院へ転属勤務。1945年(昭和20年)、衛生兵として輸送船で南方へ派遣される途中、バシー海峡にて敵襲に遭い、乗艦が撃沈。7時間漂流した後に奇跡的に救助された。戦後は、田所太郎、大橋鎭子らと『日本読書新聞』を再刊。後に『三田文學』等に文芸評論を発表するようになる。また、雑誌『書評』の編集長となり、一方でカストリ軟派娯楽雑誌や倶楽部雑誌に少女小説、大衆小説などを乱作。1949年(昭和24年)、日本読書新聞を辞し、日本浪曼派系の佐藤春夫に師事。本格的に文筆活動へ入る。1951年(昭和26年)、『三田文學』に発表した『デス・マスク』が第25回芥川賞・第25回直木賞候補となる。1952年(昭和27年)、『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞。同年の『真説河内山宗俊』発表以後は、時代小説を次々と発表した。1956年(昭和31年)に創刊された『週刊新潮』に連載された『眠狂四郎』シリーズは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させ、読み切りという斬新な手法をとった連載手法と通俗的な要素を織り込み、剣豪小説の一大ブームを巻き起こし、「剣豪作家」のイメージが定着した。後期の現代小説では『チャンスは三度ある』などがある。1966年(昭和41年)からは直木賞の選考委員を務める。柴田が選考委員をしていたこの間の受賞者には、五木寛之、野坂昭如、陳舜臣、井上ひさし、藤沢周平などがいる。次いで今東光と共に「文壇野良犬会」を結成し、水間寺での住職権限を争う大乱闘や梶山季之の急逝における葬儀争奪戦での役回りなど、數山の僧兵かと見まがうがごときの活動も繰り広げた。1969年(昭和44年)、『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞。1974年(昭和49年)、NHK長篇人形劇『真田十勇士』を書き下ろす。後年は「3時のあなた」(フジテレビ)や「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)など、テレビ番組への出演を積極的に行うなど、文化人タレント的な一面も持っていた。1978年(昭和53年)6月30日午前2時45分、肺性心のため慶應義塾大学病院で死去。享年61。



『眠狂四郎』で一世を風靡した作家・柴田錬三郎。無駄を省いたスピード感ある文体と伝奇性に富んだロマン溢れる内容で一時代を築き、五味康祐と並ぶ剣豪小説の旗手となった。「シバレン」の愛称で親しまれた柴田錬三郎、痩せこけた顔立ちと常に苦虫潰したような表情がまるで無頼派作家のようだった彼の墓は、東京都文京区の伝通院にある。晩年に影響を受けたという横尾忠則の設計による八段重ねの墓には「齋藤家之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。左横には球形の文学碑が設置されている。戒名は「蒼岳院殿雋誉圓月練哲大居士」

