2019年 03月 21日
今東光(1898~1977)

今 東光(こん とうこう)
作家・僧侶
1898年(明治31年)~1977年(昭和52年)
1898年(明治31年)、神奈川県横浜市伊勢町に生まれる。父・武平は船長職の最古参で、国内五港定期航路「品川丸」を経て、海外航路 「香取丸」のキャプテンを務めた。東光は父の転勤に沿い、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。この頃、父同士が友人だった郡虎彦の影響で文学に関心を持ち、永井荷風、谷崎潤一郎を耽読。漢文に長け、北原白秋、室生犀星と文通を試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった。その後、兵庫県立豊岡中学校に転校するも、地元の文学少女と恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。以後は正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。1915年(大正4年)、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食。「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し、東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。しかし、東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず、絵筆を折る。1917年(大正6年)、室生犀星の詩誌『感情』に詩篇「父の乗る船」が掲載される。1918年(大正7年)、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯の師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年(大正9年)神戸時代の知人の紹介で、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め、「盗講」と号して第一高等学校 (旧制)のモグリ学生となり、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。1921年(大正10年)、川端の強い推薦により、第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「唐代小説」等の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年(大正11年)、『新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められ、菊池寛の訪問を受けて『文藝春秋』創刊に参画。その後、石浜金作らと新進作家による『文藝時代』創刊に参加して、「軍艦」「痩せた花嫁」などを発表。中でも、『苦楽』に発表した「朱雀門」は高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。しかし、菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光が正規の文学士ではないという理由から執筆メンバーから外したこと、また『文藝春秋』が掲載した「文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事(執筆は直木三十五)に腹を立て反駁文を『新潮』に掲載したことなどをきっかけに激しく菊池寛ら「既成文壇の権威」と対立して袂を別ち、『文藝時代』も脱退した。その後、新潮社の中村武羅夫らによる「不同調」に参加すると同時に、神楽坂・白銀町に文党社を興し、同人誌『文党』を創刊。村山知義が表紙画を担当、間宮茂輔、サトウハチローらが参加し、参加者がプラカードをぶら下げて「文党」の歌(桃太郎の節)を歌いながら街頭を練り歩くなどもした。一方、『苦楽』に掲載した「異人娘と武士」は阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化されて大当たりし、この縁で阪妻プロの顧問となった。1925年(大正14年)、処女作品集『痩せた花嫁』を出版。これが好評となり、雑誌からの執筆依頼も増えた。1926年(大正15年)、初の新聞小説『愛経』(東京日々新聞、大阪日日新聞)を連載。1927年(昭和2年)、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。また「文党」に集まっていた社会運動家の影響でプロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年(昭和4年)に日本プロレタリア作家同盟に参加。作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」を発表。また、映画の関係から日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた。しかし、当時の妻の嫉妬と極端な独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇に距離を置く。この時期、妻の実家があった茨城県結城郡大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗正覚山蓮華院安楽寺(現在の茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正の知遇を得て、非常勤私設秘書を買って出た。1930年(昭和5年)、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度。天台法師となり「東晃」と号した。その後、比叡山麓坂本、延暦寺の子院、戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもとで三ヶ年の修行。1933年(昭和8年)、四度加行(しどけぎょう)を履修。1934年(昭和9年)3月には、天台宗の僧侶養成機関「比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)」を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下った。この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを刊行し、阪東妻三郎を主役にトーキー「支倉常長」の製作、バチカンロケも視野にする構想を発表したりした。1936年(昭和11年)、『日本評論』に「稚児」を発表。しかし、強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨う。静養中は秘教義や易学の研究に勤しみ、「神秘」「易学研究」といったものを執筆。1941年(昭和16年)、権律師春聽として岐阜県郡上郡嵩田村(現在の岐阜県郡上市美並町)、天台宗大日坊(古来、加賀国白山寺白山本宮〔現在の白山比咩神社〕、越前国平泉寺白山神社と並び白山信仰の拠点であった、美濃国白山中宮長瀧寺=泰澄開基の末寺、長瀧一山八坊の一)の住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興に至らなかった。同年、易学書『今氏易学史』を発表。同書は殷代から明代にかけての史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受けた。また、神智学の書籍『神秘的人間像』(THEOSOPHICAL PUBLISHING HOUSE (TPH)刊 C・W・リイドビーター 原著)を訳出刊行した。1943年(昭和18年)、文藝春秋に出家後の僧名である春聽の名で「熊野拾遺」を発表。20年ぶりの同誌執筆となった。また、御門流『擇艸』や、佐渡に渡って取材した大著『順徳天皇』を発表。11月にはようやく小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地で法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現在の筑西市)東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇。「灌頂」を履修し、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。戦時中は東京・穏田(渋谷区神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興したが、1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で2万5千冊の蔵書を焼亡。新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書、史料等も焼失した。1947年(昭和22年)、かつて『日本評論』に発表した「稚児」を、稿を革たに谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行。1948年(昭和23年)、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想し、「悪童」を連載。また、亡父の墓処、多磨霊園、武蔵國分寺跡はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生まれた。1950年(昭和25年)、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義。1951年(昭和26年)、天台宗総本山延暦寺座主の直命により大阪府八尾市中野村の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、 天海大僧正の直弟子・念海和尚による再興、無畏智道上人止住隠棲など、歴代の高僧の隠居寺であった。西下には、齋藤石鼎(のちに義仲寺住職)、塚本龍泉(法華行者、易学家 『觀法』主幹)が同道。保田與重郎が『春聽上人』としての西下を促した。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想。高見順も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。1952年(昭和27年)、天台院主として東光山(紫雲山)天台院に晋山。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と作家魂が蘇生し、個人雑誌『東光』を刊行するに至った。後に文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公・朝吉親分のモデルとなった岩田浅吉との出会いもこのころであった。1953年(昭和28年)、短編「役僧」が30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編 『創作代表選集』にも収録された。1955年(昭和30年)10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み、教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となった。1956年(昭和31年)1月、京都の宗教紙「中外日報」第二代目社長に就任。同年、裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞。流行作家として文壇に復帰する。作家活動再開後は「悪名」「こつまなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。1957年(昭和32年)、東京・京都で開催された国際ペン大会京都大会において日本ペンクラブ会長川端康成を援け、関西財界人に呼びかけ大会を成功に導いた。1958年(昭和33年)、帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短期大学講師として比較文学を講義。1960年(昭和35年)、山田耕筰、和田完二らと「大阪文化協会」を設立。第1回大阪文化まつり開催となってゆく。この時期、古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠木正成)」など歴史小説を数多く創作。天台院の名は全国に知られた。同院の再興につづき、貝塚市の水間寺、密蔵院(春日井市)、明眼院、安養寺など特命住職として次々に兼務する荒廃した古刹の復興に身を挺し、印税を注ぎ込んでの寺院経営を手がけ、権僧正を拝命する一方、「オレは大工坊主みたいなものだよ。オイ」と周囲を笑わせ、ケムに巻いていた。1964年(昭和39年)、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅に出る。4月28日には、バチカン市国ローマ法王庁にて教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った。1965年(昭和40年)には僧正となり、1966年(昭和41年)中尊寺貫主に晋山。国宝「金色堂」の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。1968年(昭和43年)、参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補。選挙時には川端康成が選挙事務長となって運動に協力し、街頭で応援演説も行った結果、当選し1期務めた。議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であり、型破りな性格と発言で有名になる。その後、「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気を集め、1973年(昭和48年)からは週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼしたため梶原一騎や笹川良一と並び「昭和の怪人」として評されることが多い。一方、谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。1969年(昭和44年)、天台宗による「一隅を照らす運動」が始まると、その初代会長を務め、そのための辻説法も行った。晩年にはS字結腸癌を患い、国立がんセンターで2度の手術を受けるも、比叡山・法華総持院東塔 昭和大再建、延暦寺における長講会、坂本・東南寺における「戸津説法」講師勤仕、不動堂(護摩堂)、涅槃堂、大書院等、中尊寺諸堂の諸整備、岩手県浄法寺町の古刹、八葉山天台寺特命住職晋山と、あらたな時代に向けての天台教学改革提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。加えて、ヨーロッパ、ハワイと錫を巡らし、過密なスケジュールながらも、執筆、テレビ出演、講演、口述を続けた。1977年(昭和52年)6月、体調を著しく崩し再々度の入院。その後、急性肺炎を併発し、9月19日に千葉県四街道市の国立療養所下志津病院で遷化。享年79。


作家として僧侶として、天衣無縫の人生を送った今東光。不良だった少年時代、東京帝国大学の講義を盗聴した青年時代、比叡山での修行、20数年ぶりの文壇復帰、平泉中尊寺の貫首になったかと思えば参議院選挙に立候補して当選…79年の生涯は恐ろしいほどに濃密なものだった。晩年にはその語り口が「毒舌辻説法」として支持され、あらゆるテレビ番組や雑誌に登場。まるで遅咲きのタレントのようであった。自由奔放に生き、型破りな僧侶として皆に愛された今東光の墓は、東京都台東区の寛永寺第三霊園、岩手県の中尊寺、天台寺、大阪府の天台院、滋賀県の比叡山霊園の4カ所に分骨されている。今回紹介する寛永寺第三霊園の墓は、五輪塔の墓の横に「今家之墓」と彫られた石塔が設置されており、その反対側に墓誌と柴田錬三郎による撰文が刻まれた碑が建つ。戒名は「大文頴心院大僧正東光春聽大和尚」。

