2019年 03月 17日
海音寺潮五郎(1901~1977)

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう)
作家
1901年(明治34年)~1977年(昭和52年)
1901年(明治34年)、鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)に生まれる。本名は、末冨 東作(すえとみ とうさく)。1907年(明治40年)、幼いときに体が大きかったことから、1年繰り上げで大口尋常高等小学校に入学。しかし、何をするにも1歳年上の同級生たちに及ばず、学校生活は苦労の多い辛いものだった。また、当時は教科書以外の本を読むのを禁じられていたため、講談本などを屋根に上って読み、近所で評判になった。その後、加治木中学(現在の鹿児島県立加治木高等学校)、伊勢神宮皇學館(現在の皇學館大学)に進学するも、1922年(大正11年)に恋愛問題から退学。一時帰郷したものの、1923年(大正12年)に上京し、國學院大學高等師範部に入学。1926年(大正15年)、國學院大學を卒業。鹿児島県立指宿中学校に国漢教師として赴任。中学教師を務めながら、創作をおこなう。1928年(昭和3年)、京都府立第二中学校に転任。1929年(昭和4年)、『サンデー毎日』の懸賞小説に「うたかた草子」を応募し、当選。このとき、小説を書くという行為に対して世間の理解が乏しかったため、本名を隠すために「海音寺潮五郎」という筆名を初めて用いる。この由来は、ペンネームを考えているうちにうとうと眠ってしまった海音寺は、これまで一度も行ったことがないにも関わらず、紀州の浜辺で眠っているという夢をみた。その夢の中の夢で、誰の声ともわからないが「海音寺潮五郎、海音寺潮五郎、…」と呼ぶ声が聞こえ、そこで夢から覚めた。そして、「ああ、これでいいや。これならわかるまい」と思い、「海音寺潮五郎」をペンネームに小説を応募したとのことである。1931年(昭和6年)、『サンデー毎日』創刊十周年記念長編小説募集に向けて「風雲」を執筆し、応募。1932年(昭和7年)、「風雲」が当選。『サンデー毎日』に連載され、1934年(昭和9年)にはサンデー毎日大衆文芸賞を受賞。教師の職を離れ、専業作家となった。1935年(昭和10年)、作家の貴司山治が中心となってはじめた実録文学研究会に同人として参加。同人雑誌『実録文学』を創刊する。1936年(昭和11年)、「天正女合戦」と「武道伝来記」で第3回直木賞を受賞。1939年(昭和14年)、戸川貞雄と同人誌『文学建設』を創刊。1941年(昭和16年)、陸軍報道班員として徴用され、約1年間マライへ行く。翌年に徴用満期のため帰国したが、かねてから健康を害していたため、帰国直後から入院生活を送る。1947年(昭和22年)、長編小説『風霜』を書き下ろすが、GHQの検閲のために発表できず。この経験から王朝ものを多く執筆するようになる。1950年(昭和25年)、同人雑誌『GoRo(豪朗)』を創刊。1953年(昭和28年)、「蒙古来る」を『読売新聞』に連載。この作品が、日本の再軍備を正当化するものだとの批判を受ける。1958年(昭和33年)、直木賞の選考委員に就任。1959年(昭和34年)、武将列伝」を『オール讀物』に連載開始。歴史上の人物や事件を対象として作品を物語風に記述しても、フィクションの要素を完全に排除し、広範かつ詳細な文献調査などをもとにして、歴史の真実はどのようであったかを明らかにしようとする「史伝文学」の復興に力を注いだ。この功績が認められ、1968年(昭和43年)に第16回菊池寛賞を受賞した。同年、紫綬褒章を受章。1969年(昭和44年)、新聞・雑誌からの依頼に応じないという引退声明を毎日新聞に発表。この宣言の数年前から「引退の念、しきりなるものがあった」と告白しており、引退宣言の理由は自分自身の人生に限りがあることを意識した上で、 長編史伝『西郷隆盛』の完成、『武将列伝』『悪人列伝』に代表される人物列伝の一層の充実、5部作『日本』の完成に向けた執筆活動に注力するためであり、これらの目標を達成の後、買い置いてある二十四史と資治通鑑を読みながら余生を送りたいという明確な目的意識をもっての引退宣言であった。1970年(昭和45年)、「こんな作品が候補作品となったのすら、僕には意外だ」とまで極言していた池波正太郎が受賞者となったことから、直木賞選考委員を辞任。1973年(昭和48年)、歴史文学の発展と普及につくすとともに、史伝の復活に貢献したことが評価され、文化功労者に選出される。1977年(昭和52年)、芸術院賞を受賞。11月、脳出血で倒れ、約2週間後の12月1日午後3時45分に心筋梗塞を併発して栃木県黒磯市の菅間病院で逝去。享年76。引退宣言で発した長編史伝『西郷隆盛』の完成と人物列伝の充実、5部作『日本』の完成は達成しないまま終わりを迎えた。


歴史小説の大家・海音寺潮五郎。歴史小説の中でも特に史伝物を多く執筆し、史伝文学の復興に尽力した。史実を再現する手法でヒット作を次々に描き、一時代を築いた海音寺潮五郎。それ故に同じ文学観を持つ司馬遼太郎を高く評価し、反対に同じ歴史物でもフィクション色の強い池波正太郎に対しては酷評を与えている。まさに歴史小説界のドンであった海音寺潮五郎の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。彫刻家・半田富久の設計による墓は、閉じられた二枚の襖を型どった石板と、花柄に自筆の「末富家」が刻まれている。小石を敷き詰めた右横隅には墓誌が建てられている。

