2019年 03月 10日
内田吐夢(1898~1970)
内田 吐夢(うちだ とむ)
映画監督
1898年(明治31年)~1970年(昭和45年)
1898年(明治31年)、岡山県岡山市に生まれる。本名は、内田 常次郎。1912年(明治45年)、作文の時間に祝辞を書かされたが、これに反発して弔辞を書きあげたところその内容が問題視され、教師に侮辱を与えたとして退学を命じられ、尋常高等小学校を中退。横浜のピアノ製作所に奉公に出る。横浜の不良少年だった頃のあだ名がトムであり、後にこれを芸名とする。1920年(大正9年)、横浜に創立されたばかりの大正活映の撮影所へ遊びに行くうち、『アマチュア倶楽部』に出演。これを機に同社へ入社し、トーマス・栗原監督の助手を務める。その後、俳優も兼ねるようになり、『喜劇・元旦の撮影』に主演したのをはじめ、何本かの映画に出演する。1922年(大正11年)、大活が解散したため牧野教育映画に移り、『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビューする。しかし、その後、旅役者の一座に混じって放浪生活に入り、旅役者や肉体労働者として浅草などで生活する。この体験は彼の作風に大きな影響を与えた。1926年(大正15年)、日活京都大将軍撮影所に俳優として入社。1927年(昭和2年)、『競走三日間』で監督に転進。以後、『なまけ者』『のみすけ禁酒運動』など喜劇を中心に映画を撮り、「トム・コメディ」と呼ばれ頭角を現わす。1928年(昭和3年)、入江たか子をスカウトし、『けちんぼ長者』を撮影。1929年(昭和4年)、小杉勇を主役に『生ける人形』を発表。社会機構に踊らされる小市民の悲哀を風刺的に描いて傾向映画の先駆と評価された。これ以来、小杉の強烈なキャラクターを効果的に使い、当時流行していた左翼思想を盛り込んだ「傾向映画」の傑作を次々と生み出していく。1932年(昭和7年)、村田実、伊藤大輔、田坂具隆らが日活から独立。新映画社を設立したときに行動を共にするが、程なく解散する。1933年(昭和8年)に新興キネマへ移るが、やがて日活多摩川撮影所に移籍。明治大正期の青春のロマンティシズムが溢れる『人生劇場・青春篇』を撮る一方、『限りなき前進』『土』などトーキーによる重厚なリアリズム作品を次々に生み出し、日本映画史上にリアリズムを確立した。しかし、会社の方針と合わず1941年(昭和16年)に日活を退社。新会社設立の失敗の後、軍務に迎合するのを嫌って1945年(昭和20年)に満州へ渡り、満州映画協会に在籍する。同地では甘粕正彦の自決現場に立ち会い、敗戦後も帰国出来ず、共産主義革命が進行する中国に残留。中国の映画製作に協力し、技術顧問として映画人の育成に尽力した。1953年(昭和28年)、復員。1954年(昭和29年)、東映に入社し、翌年『血槍富士』で監督業に復帰した。以降、『大菩薩峠』、『宮本武蔵』のような時代劇大作を発表する一方、アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』や、部落問題を底流に描いた水上勉原作のサスペンス『飢餓海峡』など、現代社会の弱者を鋭く照射した作品も発表し続けた。1964年(昭和39年)、紫綬褒章を受章。1965年(昭和40年)、興行上の理由から東映が『飢餓海峡』の本編を無断でカットしたことに抗議し、クレジットから名前を外すよう要求。この騒動がもとで、後に東映を退社した。1968年(昭和43年)、勲四等旭日小綬章を受章。その後は体調不良に悩まされるようになり、胃や肺、心臓動脈瘤といった病気を次々に発症。映画製作が思うようにできなくなってしまう。1970年(昭和45年)4月、『宮本武蔵』の続編で伊藤大輔の脚本を得た『真剣勝負』のロケ中に倒れ入院。いったんは再起し撮影を続行したが、徐々に体調が悪化。8月7日午前9時20分、癌のため死去。享年72。その死は、死後解剖されて前立腺から発生した癌が全身に転移したものであったことが明らかになった。
社会の不条理に反抗し、常に弱者に寄り添い続けた映画監督・内田吐夢。その作風は、彼の歩んできた山あり谷ありの人生によって培われた。高等小学校を退学させられ、ピアノ屋でのつらい丁稚奉公。不良少年から映画人になったかと思えば、旅芸人の一座に入りドサ回りを体験。果ては、浅草で日雇い人夫も経験。終戦を満州で迎え、甘粕正彦の自決にも立ち会った。戦後は日本に帰らず中国に留まり、毛沢東思想にどっぷりと浸かった後に帰国。過去の大監督扱いだったにもかかわらず、復帰作『血槍富士』をヒットさせて見事復活を果たす。数多くいる日本映画の巨匠の中で、これほど浮き沈みの激しい人生を送った映画監督はいないだろう。だからこそ、一貫して弱者の視点で映画を作ることができたのだと思う。死の間際まで映画を撮り続けた硬派な映画監督・内田吐夢の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。墓は妻の兄で映画カメラマンであった碧川道夫と共に埋葬されているため、「内田家之墓 碧川家之墓」と彫られている。右側面に墓誌があり、右側に直筆による「命一コマ 吐夢」の記念碑が建つ。