2019年 03月 09日
古賀政男(1904~1978)

古賀 政男(こが まさお)
作曲家
1904年(明治37年)~1978年(昭和53年)
1904年(明治37年)、福岡県三潴郡田口村(現在の大川市)に生まれる。本名は、古賀 正夫。7歳のときに父が死亡。田口村を離れ、働いている兄がいる朝鮮に渡り、最初は仁川に、その後は京城で暮らした。感情起伏の激しい少年時代をすごしていたが、従兄弟から大正琴をもらい弦楽器に目覚める。中学三年のときには一番仲のよかった兄からマンドリンを送られた。1923年(大正12年)、明治大学予科に入学。在学中に明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。1928年(昭和3年)夏、宮城県松島で自殺を図るが未遂に終わる。蔵王の夕暮れを見て『影を慕いて』の詩が浮かんだと言われている。同年の秋、明治記念館講堂で開催された定期演奏会で佐藤千夜子の知遇を得る。1929年(昭和4年)6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、『文のかおり』など自作品をビクターで吹込んだ。1930年(昭和5年)秋には『影を慕いて』をビクターで佐藤千夜子の歌唱によって吹込む。1931年(昭和6年)1月、新譜でレコードは発売されたが、売れ行きは芳しくなかった。3月、明治大学(旧制)商学部を卒業し、日本コロムビアに入社。当初は作曲に自信が無く文芸部の社員を希望したが、結局作曲家として契約した。この時、東京音楽学校在籍時の藤山一郎と出会い、『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降多くのヒット曲を世に出した。1933年(昭和8年)には松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしたが、直後に離婚騒動などで体を壊し、晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。1934年(昭和9年)、テイチクに移籍。ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などのヒット曲を生んだ。1938年(昭和13年)、外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問し、アメリカNBC放送では古賀の作品が取り上げられた。1931年(昭和14年)、コロムビアに復帰。『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等のヒット曲を放った。 戦後は『悲しき竹笛』のヒットを皮きりに、『湯の町エレジー』『トンコ節』『ゲイシャ・ワルツ』等をヒットさせ、作曲界をリードする。1948年(昭和23年)には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立した。1959年(昭和34年)、日本作曲家協会を創設し、初代会長に就任。このとき、服部良一らと共に日本レコード大賞を創設した。1964年(昭和39年)、美空ひばりが歌った『柔』が190万枚を売り上げる大ヒット。1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞した。この頃より大正琴の普及にも努め、自作曲の大正琴レコード、オリジナルブランドの改良大正琴「KOGA TONE(古賀トーン)」を販売した。しかし、同じ年に脳卒中を発症。9年後に再び発症し、以降は体調の優れない日々が続いた。1968年(昭和43年)、紫綬褒章を受章。1974年(昭和49年)、『広島平和音楽祭』を開催。1975年(昭和50年)、勲三等瑞宝章を受章。1978年(昭和53年)6月17日、明治大学マンドリン倶楽部・第102回定期演奏会(杉並公会堂)で指揮者を担当。これが古賀自身最後の公の姿となった。7月25日、体調不良を訴え、医師より冠状動脈硬化症の診断が下される。入院を勧められるもこれをやんわりと拒否。そのうち容態が急変し、午後1時15分、代々木の自宅で急性心不全により死去。享年73。没後、国民栄誉賞が贈られた。



昨年、没後40年を迎えた歌謡界の父・古賀政男。それまで、唱歌調や新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、古賀の登場によって「流行歌」というものが確立された。生涯に約4000曲の作品を残し、哀愁を帯びた独特の節回しは「古賀メロディー」といわれた。その最たるものが『影を慕いて』『湯の町エレジー』であるが、『丘を越えて』『東京ラプソディー』といったメジャー調の曲、『うちの女房にゃ髭がある』『ゲイシャ・ワルツ』といったコミックソングなど作風は実に幅広い。昭和歌謡の第一人者ともいえる古賀政男の墓は、東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所にある。古賀の墓所入口には柵が設けられ、長年関係者以外のお参りはできなかったのだが、2018年より一般の人もお参りできるよう整備されたようで、入口には「古賀政男墓所」というレリーフが新設されていた。墓には「古賀家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「大響院釋正樂」

