2019年 03月 09日
幸田文(1904~1990)

幸田 文(こうだ あや)
作家
1904年(明治37年)~1990年(平成2年)
1904年(明治37年)、作家の幸田露伴の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)に生まれる。5歳のときに母を、8歳のときに姉を失う。1912年(明治45年)、露伴が児玉八代(やよ)と再婚。1917年(大正6年)、寺島小学校を卒業。東京女子高等師範学校を受験するが失敗し、八代のつてにより女子学院に入学。この年の夏休み、八代がリウマチのため家事が困難になってきていたことから露伴による生活技術の教育を受けるようになる。1928年(昭和3年)、清酒問屋三橋家の三男・幾之助と結婚し、翌年には娘の玉(後の青木玉)が生まれる。しかし、結婚から8年後に家業が傾き廃業。1936年(昭和11年)に築地で会員制の小売り酒屋を営むも、1938年(昭和13年)に離婚。娘を連れて父のもとに戻った。戦時中は露伴の生活物資の確保のために働き、少女時代から露伴にしこまれた生活技術を実践していった。1947年(昭和22年)、露伴が死去。その後、雑誌露伴の思い出や看取りの記を中心にした『雑記』『終焉』を発表。清新直截な文体が認められ、その後も『父』、『こんなこと』等を発表。1949年(昭和24年)には幼少時の思い出を書いた『みそっかす』を連載し、いずれの随筆集は注目された。しかし、1950年(昭和25年)に断筆を宣言し、翌年に柳橋の芸者置屋に住み込み女中として働いたが、病のため約2ヶ月で帰宅する。そのときの経験をもとに、1955年(昭和30年)長編小説『流れる』の連載を開始。1956年(昭和31年)、『黒い裾』で第7回読売文学賞を受賞。同年、『流れる』で第3回新潮社文学賞を、翌年には日本芸術院賞を受賞した。一方で、『露伴の書簡』、『露伴小品』 、『露伴蝸牛庵歌文』といった父にまつわる著作を編集し、露伴研究にも寄与した。1965年(昭和40年)、奈良斑鳩町の法輪寺井上慶覚住職から、焼失した三重塔の再建について話を聞いたことをきっかけに、官公庁への嘆願・申請や募金活動に尽力。その後自らも奈良に移り住み、作業にも加わるなどして再建を実現させた。1973年(昭和48年)、『闘』で第12回女流文学賞を受賞。その後、ライフワークとして北海道の「トド松の枯れ林」、福島県の「三春の滝ざくら」、鹿児島県屋久島の「縄文杉」など、各地の樹木を見て歩き、その生命力を描いた連載『木』を執筆。70代からは静岡県の「大谷崩れ」を始め、全国の山河の崩壊地を行脚した。1988年(昭和63年)5月、脳溢血に倒れる。以後は自宅で療養生活を送っていたが、1990年(平成2年)10月31日、心不全のため茨城県石岡市の病院で死去。享年86。没後、従四位勲三等瑞宝章を追贈された。



明治の文豪・幸田露伴の娘として生まれた幸田文。43歳という遅咲きのデビューであったが、みずみずしい感覚と歯切れのよい文体が高く評価された。しかし、父の思い出を書き続けることに限界を感じて断筆を宣言。柳橋の芸者置屋で住み込みの女中を経験した後、その体験をもとに書いた小説『流れる』でようやく作家としての地位を固めた。自らを「台所育ち」といい、暮らしの中から拾い集めた女性の知恵を描き続けた幸田文。晩年は樹木や山河の崩壊地に関心を抱いて全国を行脚するなど、様々な興味に体当たりした彼女の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。10基に余る幸田一族の墓碑が建っている墓域において、入口入ってすぐ右側にある「幸田文子之墓」が彼女の眠る墓である。父・露伴の墓を斜に見た位置に建つ墓の右側面には墓誌が刻まれている。

