2019年 03月 04日
栗島すみ子(1902~1987)

栗島 すみ子(くりしま すみこ)
映画女優
1902年(明治35年)~1987年(昭和62年)
1902年(明治35年)、東京府豊多摩郡渋谷村大字中渋谷(現在の東京都渋谷区道玄坂)に生まれる。父の死後、母の再婚先である川村家を経て新派俳優・栗島狭衣の養女となった。 1907年(明治40年)、狭衣の師である水木歌橘に入門し日本舞踊を習う。同年、父の主宰するお伽劇『うそつき爺い』で初舞台を踏む。1909年(明治42年)、狭衣と共にM・パテー商会製作・公開の映画『新桃太郎』に出演。1913年(大正2年)、栗島狭衣一座の座員となり巡業生活を送る。しかし、このためにほとんど学校に通っていなかったことから、将来を案じた母が一座から離れさせ、日本舞踊の修行に専心させる。1918年(大正7年)、水木歌紅の名で名取となる。1921年(大正10年)、松竹蒲田撮影所に入社。ヘンリー小谷監督の『虞美人草』に当時の人気俳優・岩田祐吉の相手役としてデビュー。岩田とは後に『船頭小唄』などで共演し、諸口十九・川田芳子のコンビと並ぶ松竹のドル箱コンビとして活躍し人気を得た。また、同作で演じた悲劇のヒロインで一躍スターにのし上り、その後『電工と其妻』『思い妻』などに主演。川田、五月信子と並ぶ初期の松竹蒲田のスター女優となった。同年、池田義臣監督の『生さぬ仲』に主演。以降は池田監督とのコンビ作が多くなり、1923年(大正12年)には池田と生活するようになるが、松竹の意向で結婚の事実は秘せられた。その後も野村芳亭監督の『死に行く妻』、島津保次郎監督の『麗人』、小津安二郎監督の『結婚学入門』『お嬢さん』、成瀬巳喜男監督の『夜ごとの夢』など当時の有力な監督の作品に出演。その群を抜いた美貌と舞踊で磨かれた立ち振る舞いで、日本を代表する映画女優となった。栗島は「映画の恋人」「日本の恋人」と呼ばれ、「アメリカの恋人」と呼ばれた同時期のハリウッド女優メアリー・ピックフォードに匹敵する人気を誇った。栗島の出演作はほとんどが現代劇で、ことごとくが新派調の悲劇であり、栗島の姿を観て「身につまされ紅涙をしぼる」というのが当時の多くの女性ファンたちだった。1929年(昭和4年)、松竹が新しく導入した「幹部制度」において、岩田、川田、藤野秀夫らと共に大幹部に昇進した。1935年(昭和10年)、撮影所が蒲田から大船へ移る時に引退を発表。1937年(昭和12年)、小津安二郎監督の『淑女は何を忘れたか』を最後に映画界を引退した。その後は水木流舞踊の宗家として晩年まで活動を続けた。数万人と言われる弟子の中には、飯田蝶子、淡島千景(水木紅景)、池内淳子(水木紅澄)がいる。1956年(昭和31年)、成瀬巳喜男監督の『流れる』に特別出演。これは蒲田時代からの付き合いがある成瀬からのたっての願いで実現し、19年ぶりの映画出演となった。1968年(昭和43年)、紫綬褒章を受章。1987年(昭和62年)8月16日、腎不全のため死去。享年85。


日本映画黎明期の時代に大人気を誇った栗島すみ子。松竹最初の映画女優であり、松竹で全盛期を迎え、松竹で女優活動を終えた、文字通り蒲田撮影所を代表するスター女優だった。戦後は舞踊の名取として活躍したが、映画『流れる』に出演したり時おりテレビに出たりと、健在ぶりをアピールしていた。特に『流れる』出演に際しては、セリフを一切覚えずに現場入りをし、弟子を13人引き連れて撮影所を闊歩。成瀬巳喜男監督のことを「成瀬ちゃん」と呼び、共演した山田五十鈴や田中絹代を存在感で震え上がらせたという伝説級のエピソードがいくつもある。日本映画のレジェンドたちが恐れる銀幕の女王・栗島すみ子の墓は、東京都大田区の池上本門寺にある。墓は嫁ぎ先の「池田家之墓」と実家の「栗島家之墓」が対にして建てられている。栗島すみ子は前者に納められており、墓の右側面に墓誌が刻む。右側には長男・義一による「栗島すみ子 ここに眠る」が建立されている。

