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橋本龍太郎(1937~2006)

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橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう)

政治家
1937年(昭和12年)~2006年(平成18年)


1937年(昭和12年)、東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚・橋本龍伍の長男として生まれる。母・春は警視総監、朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女であったが、龍太郎の生後5か月後に中耳炎をこじらせ急死した。そのため、武家(旧熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられたが、7歳のときに継母・正を迎えた。中学入学時から学校の勉強には全くついていけず、常に圧倒的最下位だったので、政治家の息子なので誰もが裏口入学だと暗黙の了解事項として理解していた。麻布中学時代は殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだった。1956年(昭和31年)、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。大学ではもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた。卒業後は、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社。1962年(昭和37年)、父・龍伍が急死。父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかったが、当時未成年であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の継母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった。1963年(昭和38年)、総選挙で衆議院議員に初当選。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞し、田中派に参加した。1978年(昭和53年)12月7日、第1次大平内閣で厚生大臣に任命され、当選5回で初入閣を果たした。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力。一方、水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議した際に、患者らの「人命軽視だ」という批判に「政府が人命を大事にしなかったことがあるか!取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた。また、竹下登を中心とする創政会の結成に参画。その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。1986年(昭和61年)7月22日、第3次中曽根内閣で運輸大臣に就任し、国鉄分割民営化を担当。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。1987年(昭和62年)には竹下内閣で幹事長代理に就任し、健康不安のある幹事長の安倍晋太郎を支え続け、消費税導入や昭和天皇の大喪の礼に対して党側の実務を担当した。1989年(平成元年)、宇野内閣成立時の際は幹事長代理の経験が買われ幹事長に昇格。リクルート事件や消費税の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選では、かつてない逆風にさらされて、自民党が惨敗した際には「こんちくしょう…」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンが、テレビで放映され話題となったが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説したことで、国民的人気を得るに至った。宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。8月の第1次海部内閣では大蔵大臣に就任し、第2次海部内閣でも留任するが、1991年(平成3年)10月の証券不祥事などで引責辞任した。1992年(平成4年)10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。経世会の副会長に就任していた橋本は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。1993年(平成5年)の総選挙時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した。しかし、総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は下野した。野党時代は小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて「政権奪還論」を執筆。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。自民党が与党に復帰した際は、自社さ連立政権の村山内閣で通商産業大臣に就任。大臣在任中は日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも高く評価されている。1995年(平成7年)9月、国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派の小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された。結果、橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝。第17代自由民主党総裁に就任した。1996年(平成8年)1月11日、村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。その後の施政方針演説では改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。2月23日、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求。4月に全面返還で日米政府が合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策や環境政策が絡む中で米国や沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、代替施設について名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。9月27日、臨時国会の冒頭で衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙中は橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われる国民的人気を見せ付けている。11月7日、社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣となった第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。特に行政改革は橋本が「火だるまになっても(行革を)やり切る」と述べたため『火だるま行革』とマスメディアに報道された。橋本は、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官・中央省庁改革等担当大臣、水野清総理補佐官(行政改革担当)のほか、経団連会長の豊田章一郎、連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。12月17日、ペルーのリマにある日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動が占拠し、多数が人質となる在ペルー日本大使公邸占拠事件が発生。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年(平成9年)1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。4月、通常国会で最大の焦点であった沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された。橋本は自社さ派と評されるようになる。6月23日、コロンビア大学での講演において聴衆から「日本が米国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そして、アメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「米国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に、屈服することはない」と続けた。しかし、大量の米国債を保有する日本の首相が「米国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本改造内閣が発足。ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革等の担当である総務庁長官に起用したことに非難が集中し、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった。11月、財政構造改革法を成立させ、6年後までの赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行や山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け12月に2兆円の特別減税を表明した。1998年(平成10年)4月1日、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入(4%→地方消費税1%を合わせて5%)を橋本内閣が実施。4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。また、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。「すべてひっくるめて責任は私にある」と橋本は述べた後、橋本内閣は総辞職した。1998年(平成10年)8月、小渕恵三首相から首相外交最高顧問を任じられ就任。この首相外交最高顧問は、内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕、森、小泉と三代にわたって務め上げた。1999年(平成11年)9月、翌年の介護保険制度導入を控え、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕首相は、厚生族の橋本に厚生大臣への就任を打診。しかし、橋本は「(前年の)参院選惨敗の責任は私にあるから入閣は無理」として固辞。2000年(平成12年)7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任したことに伴って会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、実権は野中広務や青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」とマスコミに揶揄された。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが放っておくこともできず、仕方なく引き受けたという。11月、加藤の乱の際に、かつてヨーロッパで行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し、物議を醸す。12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、沖縄開発庁長官に就任。また、新設された行政改革担当大臣も兼務した。自身が進めた省庁再編を担当し、翌年には省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。4月の総裁選では、同派幹部の高鳥修や村岡兼造らのすすめもあり、派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出たが、当初は橋本の勝利が予想された。しかし、「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で敗北。小泉から入閣を要請されたが、橋本は固辞した。2003年(平成13年)9月の総裁選では、橋本派から熊代昭彦、笹川堯、藤井孝男の3人が総裁選出馬を表明。橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。この総裁選の過程で村岡兼造や久間章生らベテラン議員、さらに青木幹雄・片山虎之助らの参議院側、自身が自民党総裁・内閣総理大臣として陣頭指揮を執った1996年衆院選当選組の桜田義孝、下地幹郎、新藤義孝、大村秀章などの橋本派若手議員が小泉支持に回るなど派内の分裂が決定的となり、橋本派は弱体化した。2004年(平成16年)7月、日歯連闇献金事件が発覚。橋本と青木幹雄・野中広務が日本歯科医師連盟会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであり、東京地検が政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士、日歯連会長と理事を逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本は「会食で1億円の小切手を貰った記憶は無い」などと発言し、日歯連の不正献金疑惑が大きく報道に取り上げられ、当時の自民党随一の政界影響力を誇り最大派閥であった橋本派の各種団体との癒着や政治と金の問題が浮き彫りになった。その後、比例区からの出馬が模索されたものの、党はこれを認めず、政界引退を余儀なくされた。2006年(平成18年)6月4日、腹痛を訴え東京都新宿区の国立国際医療センターに入院。腸管虚血との診断を受け、大腸の大部分と小腸を切除するなどの手術を受けた。その後も集中治療室で治療が行われていたが、7月1日午後2時、腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去。享年68。


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1980年代から1990年代にかけての政界を代表する政治家・橋本龍太郎。昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たし、竹下派七奉行の一人として着実に基盤を築き、第82の内閣総理大臣にまで上り詰めた。大臣就任前は、水俣病の患者が厚生省へ抗議に押しかけた際に「政府が人命を大事にしなかったことがあるか!」と激怒したり、1989年の参院選で自民党議員が敗れた際に「こんちくしょう…」とチェリーを喫煙しながら悔しがるシーンがテレビで放映されるなど、決して良い一面ばかり取り上げられることはなかったが、総裁選前からその流れが急に変わり、総理就任後は「 ポマード首相」と独特の髪型を揶揄されたり、「龍ちゃんプリクラ」が党本部1階ロビーに設置されるなど、いつの間にか愛されキャラとなってしまった。政治家としても在ペルー日本大使公邸占拠事件の人質無血解放までは順風満帆だったように思うが、「失われた10年」の引き金となった消費税増税を皮きりに、日本歯科医師連盟からの闇献金疑惑、自民党からの引退勧告と、晩年はそれまでの功績を手のひら返しするように不遇であった。政界随一の政策通として知られ、各政策部門の細かな部分まで精通していた橋本龍太郎の墓は、東京都港区の青山霊園と岡山県総社市の宝福寺にある。前者には「橋本墓」とあるだけで墓誌はない。また、何故か墓前には数体の恐竜のおもちゃが供えられている。戒名は「高潔院殿俊岳龍吟大居士」
by oku-taka | 2019-02-24 14:05 | 政治家・外交官 | Comments(0)